運命に学ぶ
池部淳子
いわき民報杜から依頼されて、母がベッドの上で綴り、平成7年12月から3か月、14回新聞に掲載された「母の随筆」が終了しました。同時に「子の随筆」も終りにしました。お読み下さいましてありがとうございました。
「子の随筆」に書きましたように、私と妹は母を5年間、その後父を3年間介護しました。脳血栓の後遺症で左半身不随になった母を介護しているうちに、父が老化の進行によって白内障になり、そのための両眼の手術や、腹部の動脈瘤の発覚など、次々と解決しなければならない問題が押し寄せました。私と妹はいま思えば、死に物狂いというか、形振りかまわずというか、そのような8年の歳月でした。
私の置かれた状況を書くのは、年老いた両親のために尽くした娘の苦労話というだけでなく、いまになってこそ判る認識のための前提条件として読んでいただきたいからなのです。
無償の愛を返そうと思って行った両親の介護は、勿論両親のためでした。しかし、母が平成9年3月に亡くなり、平成12年2月の父の死によって私と妹の介護生活が終了したあとのいま、それらはすべて結果として白分のためのものだったと知りました。
次々に起こる病変への対処、病院をはじめ社会生活への対応、役所との交渉、事務の処理、そして生活の維持など、技術が乏しく、精神が弱くては役にたちませんでした。
まるで運命に知恵を試され、判断力を試され、行動力を試され、忍耐を試されるようでした。これらの運命の試練によって、私は自分が無知で、自らにとても甘い人間であったことを知りました。それは大いなる挫折でした。
その挫折を乗り越えられたのは、もはや未来が少ないであろう親のことだけを考え、いまは白分のことは考えまいと決意した結果だと思います。「自分を捨てて母を愛そう」と決めたのです。「風前の灯のような母の命のために二人ができる限りのことを」を使命のように、私と妹は介護しました。そして、親子で「愛すること」を知りました。
また、運命の試練を受け入れ、解決のために「知恵を絞って」必死に努力するという日常から、それまで経験しなかった多くの事を学ぶことになりました。
両親は人間の生病老死をも、身をもって私に教えていってくれました。私は人の一生を考えることができるようになり、そして終りも一生のうちの一事として具体的に認識できるようになりました。両親の介護は私と妹が払ったもの以上のものを、私たちに与えてくれたことをはっきりと知ることができます。
アメリカの女流詩人エミリ・ディキンスン(1830〜1886)の詩の一篇がいま私の身に沁みます。
もし愛がすぐそこにあるのなら
一時間を待つのも長い
もし愛が最後に報いられるのなら
永遠を待つのも短い
(『月』発行人)
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