「N」でのひととき  杉山康成  (随筆通信 月19より)
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「N」でのひととき
杉山康成

 「外、雨降ってました?」顔に置かれたタオル越しに明るい声が響く。「結構、降ってましたよ。」「あーあ、困っちゃうな。梅雨時はいつも大変なんです。毎日、白転車で通ってるんで。」「どこから?」「代々木上原。」心地よく髪を流すシャワーに身を任せながら、雨にぬれた坂道を一生懸命自転車をこぐ彼女の姿をぼんやり思い浮かべる。「坂が多いでしょう。」「そうなんです。一度下って、上って、また下って上るんです。こっちにくるときですけど。お湯、熱くないですか?」

 僕が通う美容室「N」は、表参道を少し入った静かなところにある。癒しとやすらぎをコンセプトにした店内は、ゆったりとしたスペースに、ぬいぐるみのようなワンちゃんが愛想を振りまく。いつもサーフィンで真っ黒に日焼けした笑顔で「今日はどうしますか?」と迎えてくれる店長のKさんは、若い店員からはすっかり長老として慕われている。カットの合間にいろいろ話すうちにすっかり意気投合してしまい、お互いの写真を持ち寄って見せ合うこともめずらしくない。先日も、個性が香る住宅の一室で撮影した雑誌の仕事を見せてくれた。自然光のみのライティングが作る透明な空気に、彼の即興的なヘアメイクが動きをつくり、へたな写真集よりはるかにアートな空間が広がっていた。

 そんな彼を突然のアクシデントが襲ったのは、結婚式を2ヵ月後に控えたある日のこと。朝、自宅で目覚めると右腕が麻痺して全く動かない。あわてて医者に駆け込むと、右腕の神経細胞が死んでしまっているという。前日、酒を飲んで家に帰った彼は、そのままベッドに倒れこみ、朝まで昏々と眠り続けた。これはいつものことだが、その日はたまたま右腕の血管に体重がかかり続け、血行不良で神経が壊死してしまったのだ。翌日、お店の椅子に座って、「このまま戻らなかったら、どうやって食っていこうか」と、ボーっと考えたそうだが、結婚を問近に控えた身で、「飲みすぎ」が原因で失職しかけている彼の冴えない表情を思い浮かべると、思わず噴き出してしまった。幸い、一ヶ月ほどで神経は再生し、軽やかなハサミ裁きも復活したそうだ。

 カットを終え、顔見知りのお兄ちゃんに髪を流してもらいながら、「今度みんなで沖縄へ行くんだって?」と尋ねると、「そうなんです。めちゃくちゃ楽しみですよぉ!」と底抜けに明るい反応。「みんなヒサロ(日焼けサロン)で下地焼きしてるんです。いきなりだと、皮むけちゃうから。」とても杜員旅行とは思えぬ乗りだ。「着ぐるみ着て来たり、迷彩服にマシンガン構えて空港に降り立つ奴もいるから目立つんですよ、俺たち!」やっばり、ここの連中は普通じゃない。

(東京都 会社社長)

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随筆通信 月 2004年7月号/通巻19号


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