「歩行」  蒲 幾美  (随筆通信 月20より)
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歩行
蒲 幾美

 「上を向いて歩けとは言わないが、せめて50m先を見て歩かないと危ないよ!いつも下を向いていてクラクションを鳴らさないと気付かないのだから」と息子から叱られる。

 気が小さいのでと友人に言ったら「心臓に毛が生えているのに」と笑われた。若い頃からうつむき加減に歩いていたと指摘されたこともある。

 今年の猛暑にうんざりして息もたえだえの日々、闘病中の友人から絵手紙が届いた。

 「この暑さ人間だけじゃない。ミミズだってオケラだって…地球だってみんなみんな悲鳴をあげている」と。この絵手紙で私は目覚めた。ミミズだってオケラだってみんな暑いのだと、小さな命をも思う彼女の愛の優しさに心打たれた。

 だが、下を向いて歩いていると、蝉が仰向けに日干しになっている。美しい蜥蜴の干物。ミミズはあちこちで紐のようになっている。だから前を見て歩かないと危ないと自覚して、つとめて背を伸ばして歩くようにしている。せめて往復20分のポストまでと家を出ようとすると「投函なら出しておくよ」と声が掛かる。「歩かないと足も退化するから、日射病予防の水と携帯電話は持っているから」と断る。

 スポーツセンターの一隅に小さな郵便局があり、ガラス張りのセンターでは朝から若者も中年も歩け、歩けと歩行機で汗を流している。上を向こうと下を向こうと交通事故の心配はないが、いくらベルトの上を歩いても四季の移り変わりの風物や、鳥の声など、目と耳にふれる感動は生まれない。ふと目にしたものの印象など立ち止まってメモしたり、考えながら歩く時もあり、危ないと反省するが、つとめて人通りの少ない道や車道を離れることを心掛けている。

 長い間教職にあり真面目な人柄で校長まで勤め定年退職した知人がいる。退職後は好きな絵を描いて絵画教室でみんなで学んだ。冗談も言わぬ、余分な事は一切しゃべらぬ校長先生だが、夫人はまことに天真燗漫で、その明るさに驚いた。娘三人の賑やかな家庭で男性が口を挟む必要はなかったのかも知れない。

 その校長先生はいつも赤や原色の片岡球子張りのすさまじい力の溢れる桜島が画題だった。静かな先生のどこにこの情勲が秘められているのか不思議に思うのだが、今年の展覧会には「風炉先屏風」に"燃える桜島"が描かれていて圧倒された。

 その先生が定年退職して家庭に帰った日、夫人に「お陰様で私は定年退職まで交通事故に会わなかった。それはいつも朝日を背に受けて出勤し、帰りは夕日を背にして帰ったからだ」と言ったのが無事故の感謝の言葉だったと聞き、人生の歩みの慎重さにまた感動したのだった。

(川崎市 郷土史研究家)

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随筆通信 月 2004年8月号/通巻20号


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