こいしかわだより
金木犀の香り
池部淳子
故郷のいわき市勿来へ私が帰り着いて、駅に降り立った時いつも真っ先に感じるのは空気のきれいなことです。肺が白然に深呼吸をして、澄んだ空気を胸一杯に吸い込もうとします。きれいな空気を吸って暮らしていれば血もきれいになるだろうな、などと考えてしまいます。
「いまはもう空気はそんなに澄んでいないよ」と住んでいる人は言うかもしれません。そう、私が育ったころは(50年前ですが)満天の星空が見られました。きっといまはもう見ることはできないでしょう。
それでも東京から帰っていく私には勿来の大気は澄んで感じられます。
それだけ東京の空気が濁っているのでしょう。塵埃の濃度が濃いというか、空気の中に何かが混じっているのを感じてしまいます。埃アレルギーという症状があります。都会の人は鼻が強くないと埃に負けてしまいそうです。私もアレルギー性鼻炎と診断されたことがあります。花粉症かと覚悟したこともあります。けれど、鼻は試練に耐えて強くなりました。都会の匂いはさまざま、そしていたるところ。少々の匂いなど気にしてはいられません。でも、そうしていると、嗅覚は鈍感になるのかもしれません。
その鈍感な鼻がよい香りに刺激されて感動したことが最近ありました。
台風22号がやってくる五、六日前のことです。朝雨戸を開けるといきなり新鮮な香りが降りかかってきました。それは金木犀の花の香りでした。家と家の間の庭とは一言いがたい狭い土地に根を下ろして、屋根と屋根の間からなんとか首を伸ばし、わずかでも光にあたろうと健気に背伸びをしているような二本の木があるのです。その一本が金木犀だったのです。
オレンジ色の細やかな花が健気な木を華やかにして、細々とした金木犀にも、命を感じました。
実は私は金木犀の香りが必ずしも好きというわけではありませんでした。あまりに強い香りに、頭痛がしてきそうだったのです。ところが今回はとても気に入って「あら、いい香り」と素直に思うのです。外出したとき気をつけて見てみると、近所にもあります、あります。意外と多いのです。それらの金木犀の香りも楽しみました。
東京では、鈍くなった嗅覚を刺激するのには、金木犀のような強烈な香りが丁度よいのかしらと思いました。それとも嗅覚にも年齢が関わってくるのでしょうか。金木犀が何かを知らせているようなできごとでした。
でもこの金木犀の花は台風22号の去った朝、雨戸を開けてみると、ことごとく地に落ちていました。まるで金の砂を敷きつめたように……。
(『月』発行人)
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