こいしかわだより
雨の日
池部淳子
目覚めたら雨が降っていました。雨は強まったり弱まったりしながら降っていましたが、午後三時には止みました。雨の余韻で静かな午後です。
世阿弥が作った能『湯谷』の中に次の一節があります。
「草木は雨露の恵み、養ひ得ては花の父母たり」
私はなぜかこの一節が好きで、雨が降ると思い出します。都にあって平宗盛に仕えていた湯谷という女性が、宗盛の誘いで花見にでかけようとしているところへ、湯谷の母親の病状が良くないと郷里から使いが来ます。湯谷は母のもとへ行かせてほしいと宗盛に頼みますが、せっかくの花見だからと許しが出ません。悲しみながらシテ(主役)の湯谷が謡い出す一節です。
今年の台風のように、大きな災害をもたらす豪雨は風情の他ですが、草木の命を育む雨は「恵みの雨」と言われ、人間に感謝の気持ちを湧かせます。育ててくれた母への感謝の気持ちのように……。
思えば日本の四季折々の雨は農業はじめ社会・経済に強い影響力があり、そのため雨をあらわす言葉もさまざまあって古くからの言葉も引き継がれています。四季の雨をあらわす言葉がそのまま雨の分類のようです。
春の雨をあらわす言葉には春雨・春霧・春時雨・花の雨・桜雨・菜種梅雨・木の牙雨・暖雨・春騨雨などがあります。
夏の雨の言葉には梅雨・走り梅雨・戻り梅雨・梅森・青梅雨・梅の雨・空梅雨・五月雨・卯の花腐し・若葉雨・緑雨・夕立・自雨・駿雨・村雨・喜雨・慈雨・涼雨・雷雨・半夏雨・夏至の雨・虎が雨など。
秋の雨には秋雨・秋霧・秋時雨・台風・野分・霧雨・霧時雨・月の雨など。
冬の雨には時雨・初時雨・朝時雨・夕時雨・雪時雨・片時雨・小夜時雨・寒の雨・寒九の雨・氷雨・嚢・凍雨など。
他に季節に関わらず量や降り方による雨の呼び方があります。小雨・小糠雨・お湿り・御降り・大雨・土砂降り・しぶき雨・鉄砲雨・猛雨・長雨・にわか雨・通り雨・日照雨・狐の嫁入り・天気雨・涙雨など……。
私は少ない緑を濡らして、しとしとと降る東京の雨の日が好きです。なぜなら雨の日は落ち着いた心でいられるからです。いつも目覚めると、今日はあれをしよう、あれも待っていると、積極的思考になってテンションが上がってきます。
でも雨の日は行動が制限されるので、今日はたいしたことはできないなあ、と諦めの気持ちが湧き、無理をしてもしかたがないと、平常心でいられるのです。私の精神にとって雨は沸き立つ熱湯に注ぐ鎮めの水のように、静かな一日を作ってくれる「恵みの雨」なのです。
(『月』発行人)
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