初牛団子
蒲 幾美
雪深い山国飛騨にも春が近づき、蕗の薹やかんぞう、蓬の若芽が残雪の間から顔を出しはじめる早春の嬉しさは雪国びとならではのものであろう。空も明るく、澄んだ川瀬には陽が射すと猫柳の赤い芽がきわだつ。その中に春を待ちきれず開く銀ねずみ色の花穂が三つ四つ。それを見つけると川に辻り落ちないようにためらいながら「仏さまに」と、子供の掌に一つかみの猫柳を折って祖母の悦ぶ顔を思いながら家に飛んだ。
二月に入って最初の午の日が初午、二回目を二の午というが、飛騨では一月おくれの三月の行事になる。町の辻々に祀る秋葉様(火伏せの神)で、子供らの打ち鳴らす小太鼓の音が響いてくると、春が近づいたなあと心が弾む。
その頃になると、近在の親しい農家からじょうず(麻布で作った袋で曲物の割籠という弁当箱入れ)に入った繭の形の初午団子がどさりと届いた。
伏見稲荷大社に神が降りた日が初午の日だったので全国で稲荷社を祭ることになったという。稲荷は商売繁昌、農家では養蚕の神として信仰されている。毎年貰う初午団子も嬉しかったが、稲荷社の団子撒きのあとの叺たくりも面白かった。
文化十三年(一八一六年)の初午の日、高山の陣屋内で当時の郡代芝与市右衛門正盛は「稲荷初午祭」を賑やかに行なわせた。「殿様より御直(じき)に仰せ出され候由」と記録にあり、この日は日頃町人の入れない表御門を開いたので人々がなだれ込んで大騒ぎになったと『紙魚のやどり』にある。このとき祝いの団子撒きがあり、陣屋の屋根の上から地役人が撤き終ると誤って叺を落とした。まだ叺に団子が残っていると思い、数十人で奪い合っているうち叺は破れ藁だけになったという。だが藁一本でも持ち帰った農家では養蚕が豊作だったという言い伝えがあり、叺たくりが近年まで続いた由縁であろう。
戦前までは春の景気づけに、二の午稲荷祭りに高山の花街では、各廓の二階から廓の女性たちが厚化粧に丸髭姿で団子や遊女名を染め抜いた手拭を下界を見下して投げた。当時の廓の女性たちのストレス解消の楽しみだったかも知れない。道路にひしめく男たち、"いなせな半被をひっかけた職人らしい若者…われ先に争って拾う群集のどよめき…"と大正十三年版の地元紙に美文調の記事が載っている一今では叺たくりはなくなったが、稲荷を祀る飛騨の神社では団子撒きは賛否両論の中で続けているところもある。
立春前日の節分、神田明神で厄年の芸能人や関取たちが大群集に向って豆撒きをしていた。子供の頃の団子撒きを思い出して拾おうとしたら、明治生まれの家人が「食べ物を投げ与えるとは何事か!」と拾わせなかった。
立ったまま豆撒きを眺めていたのは私らと警備のお巡りさんだけだった。
(川崎市 郷土史研究家)
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