「十二月」  蒲 幾美  (随筆通信 月36より)
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十二月
蒲 幾美

 十二月の町はクリスマスのジングルベルが慌しく、ポインセチアが彩る。もう一年過ぎたかと振り返り、来年こそはと期待する。

 私の子供の頃の田舎町は殆ど農家で自給自足の静かで冬が長い暮らしだった。娯楽のなかった時代だったが農家の労働の合間には休養と楽しみの行事があり、節句、早苗饗さなぶり祗園会ぎおんのうどん、盆踊りや刈り上げ餅、秋祭りなど神仏や自然への感謝と栄養補給が年中行事のしきたりの中に籠っていた。

 冬は仏事が多く、お寺の行事や農家では親鸞上人への報恩で親戚知己を招き僧を呼んで報恩講ほんこさまを催す。その年に収穫した芋、人参、牛蒡、大根などの精進料理でもてなし、土産にその料理を朴葉包みにして藁で縛って持たせた。

 村の所々、半紙に筆太の「招待」の張り紙は、他郷の僧を招いて法話を聞く会の知らせで「越中片掛の坊さまの話は面白うて」などと村人は講談でも聞くような思いで誘い合い連れだって出かける。

 雪の降る夜は念仏講の声自慢の十余人が、御高祖頭巾に合羽かっぱやコートを着て、鈴を振りながら雪の町を喜捨を受けながらゆく.また或る夜は町の教会の牧師がドン・ドンとドラムを打ち讃美歌を歌う辻々の伝道が雪風にきれぎれに響いてくる。私の子供の頃から成人するまで町のヤソ教信者は古い写真屋さんと鋳掛職人一家で、時たま転勤の官員の信者がふえる程度だったのである。

 教会は私が嫁した商家の近くだったので牧師夫妻とは親しくしていた。戦時中のこと、牧師の真島夫人が私に言われた。「世界から戦争がなくなりますように一日も早く平和が来ますように朝夕お祈りしています」と。

 その頃関西から近所に疎開した事業家がいて知人三人と戦争の話をしたのが、反戦運動をしていたとして投獄された。言いたいことが言えない時代、敬虔な牧師の真島夫人の言葉を私は生涯忘れない。

 いまでも冬の夜になると、はるか家郷の町のご詠歌と鈴の音が…、讃美歌とドラムが…、親しかった牧師夫妻や写真屋さんが、幻影となってよみがえる。

 去年の暮、明治生まれの夫が仏界に旅立った。葬儀のあとの五七日忌や百ヶ日ほか墓前で僧侶の読経でおまいりしてきたが、お盆は仏を家で迎えるのだから、家族十人全員集合してお経をあげようということになった。お経のテープを買い、「正信偈しょうしんげ」をコピーして十冊の経本も仕上げた。

 五歳と六歳の曾孫ひまごの男児もママの指差すかなの一字一字を、テープにのせて、ちぐはぐなお経の大唱和。間違えて笑い声が出たり、三十分のお勤めは「ああ、よかった!」と口々に仏を迎えた感動の充実感の言葉になっていた。

 読経の後は心をこめて作ったふる里料理の賑やかな会食で、お盆の行事を終えた。

 十二月二十九日、夫の一周忌を迎える。

(川崎市 郷土史研究家)

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随筆通信 月 2005年12月号/通巻36号


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