いわきファイルE
『いせや』の暖簾
池部淳子
かつて私が18歳まで育ったこの町には、阿武隈山地の山奥から続いている一本のメイン道路があった。これは浜近くの常磐線勿来駅へつながる町の幹線道路。この道路を挟んで300メートル近い商店街があった。私の家はこの商店街の上手の外れを曲り、少し奥まった住宅地にあった。
買物に出て行くと商店街の最初の主な一軒が『渡辺呉服店』、そこはバスの停留所にもなっていた。呉服店といっても洋装関係も扱っていて、わが家の衣類は専らここから買った。生地を買って母が仕立てたりもした。ここを皮切りに、豆腐屋、蕎麦屋、小児科・歯科医院、和菓子屋、人形店、肉屋、花屋、理髪店、八百屋、米屋、時計店、化粧品店、靴屋、薬屋、食料品店、銀行、内科医院、郵便局、本屋、野菜市場、家具屋……と、暮しに関わる商店が続いていた。
スーパーマーケットのない時代だから、一ヵ所で大方の買物が済むというわけにはいかない。一筋のこの商店街を、必要な品に応じて一店一店立寄って買物をした。客の出入りで商店街は活況だった。
40年後、故郷へ帰った。『渡辺呉服店』は店を閉じていた。商店街は静かだった。
自動車時代が到来したが、店が道路に面して建て込んでいたため駐車場ができない。そのうち、商店街の下手の外れに駐車場付のスーパーマーケットができて、客がそちらへ流れた。商店の数は半減した。ああ、栄枯盛衰……。
一方、買物に出て商店街に入る時、左へ曲ると『渡辺呉服店』の方であるが、右に曲っても四、五軒商店があった。美容院、蒲団屋、うどん屋、雑貨屋などであった。商店街の上手の方はここで尽きる。
二月から勿来で生活を始めたが、身の回りの整理に時間を取られて外出できずにいたが、ある夕方、上手の雑貨屋の前に郵便ポストがあったことを思い出し、葉書を握ってでかけた。おじさん、おばさんと呼ばれていた雑貨屋夫婦も高齢だろうし、息子はもう立派なサラリーマンだろうから、店は閉めただろうと思いながら着いてみると、やはりポストはあったが、雑貨屋は閉めていた。
さて、葉書を投函して帰ろうと二、三歩踏み出して驚いた。『いせや』が営業していた。暖簾が下がっていた。
『いせや』は手打ちうどん屋である。かつてお遣いに出されて「玉うどんください」と裏口からのぞいた店。新しい外食店がどんどんできているなか、もうなくなったとばかり思いこんでいた店。それが小綺麗なまま暖簾を下げていた。その暖簾が古めかしい。紺色が薄鼠色になっている。でも、丁寧に洗濯しているのか、清潔な暖簾。ご主人は書道を教えていて、店はおばさんひとりで仕切っていた。あのおばさんが元気なのだ。しかも清潔なこの暖簾。私は嬉しくなった。
あとで『いせや』の近所の人から聞いた。「『いせや』のおかみさんは立派だよ。朝は暗いうちからとっとと歩いて足を鍛えてがんばっているもの」
しばらくしてまた店の前を通ったら、何と暖簾が新しい。仕立ては前と同じだが、真新しい紺地。
まるで、まだこれからも頑張りますという『いせや』のおばさんのメッセージのような。
(『月』発行人)
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