職人気質
蒲 幾美
物作りということが見直されてきた。毎日の暮しには物の世話になっているのに、家具や生活必需品など店から買ってきた程度の感覚で深く考えたことがない。物作りとは人の手で一つの形を成すことで、大量生産される工程の機械の小さな部品でも手作りでないと作動しないこともあるらしい。
私の子供の頃は古い士農工商の流れがあり、一番偉いのは官員さま(公務員)次は土地を多く持つ旦那衆、そして働く百姓たち、工の部には大工左官、指物師ほか種々の枝を持つ職人が大勢いた。
明治生まれの祖母は殊のほか職人が好きで、副業のたばこ屋の陳列棚を贔屓の職人を呼んで自分のアイデア通りに作らせ、その引出しには町の職人絵師に刻みたばこ名の草花などを描かせたりした。手に職を持つものは一生喰いはぐれないとか、芸は身を助けるなどと言われていたが、腕に誇りと自信を持つ職人の中には貧乏暮しの者も多くいたらしい。
現在の舗装時代、建築や土留のブロックや堰堤など計算し尽くされた工程の成果のことは私には分からないが、白川郷から移築した伊豆下田の合掌造りが、かなりの地震で周辺に倒壊などの被害が出たのに、壁に掛けた一刀彫りのお多福の面がずれた程度だったと家主から聞かされた。
ねこだ(藁や菅、桧・桜の皮などで作った背嚢)に石工の道具を入れ、広次という号と弟子四十六人を持つ文久生まれの飛騨工岡田勝蔵さは自然石の石積みや立石の字彫り、小物の彫刻も見事で、石の蛙の水差しは水掻きまで生きもののようだったと語り継がれている。名人ぶらずどこへでも出かけた。弟子の一人に有名な立田万年がいて数々の社号碑や忠魂碑などの中に京都清水寺の「七卿落」の記念碑がある。
話はそれるが、町に芝居や大相撲の巡業があると知合いの親父さんが役者名や関取名を書いていたが、何を思ったかある時私に「勘亭流を継いでくれないか」と言った。特殊な書体の達人なのか職人なのか分からなかったが、若かった私には全然興味のないことだった。
田舎町を離れ第二の人生に向かっていた頃、郷里の私の住んでいた近くの桶屋の老人が尋ねて来た。「お宅には恩がありまして」と言う。老人の父親は桶作り職人で、若い頃近在から母親と駆落ちをして町に来た時、米屋を継いでいた義母があれこれ面倒を見たことは聞いていた。
手みやげに作ったという美しい柳樽を包みから出し、細長いボール紙に文字と線を書いた数枚を是非貰って欲しいと私に手渡した。「職人には大事な物ですが息子らは公務員になり、見向きもしませんで」と。桶作りの秘図か、私の貰う物ではないからと何度か返したが女房に先立たれた職人の佗しさが伝わり、老人の心が安らぐのだったらと貰うことにしたのだった。
この頃、平成の物作りの一つなのか職人技なのか、電子工作に取り組む若者が増えているという。
(川崎市 郷土史研究家)
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