いわきファイルG
ささやかな生活
池部淳子
秋は日々深まってゆく。空が澄んで、空色というのはこんな色かしらと感じさせるような、淡い透明感のあるブルーの空になる。さらに雲ひとつない快晴の日には、全天鮮やかな青い空になる。「雲ひとつない」というのは、修飾語ではない。実際に雲が空にひとつも見当たらないのである。このような空は、空気の汚れた東京では見られなかった。
秋の雲も美しい。筋雲、鰯雲、鱗雲、浮雲とそれぞれに高高とした空の青をバックに、雲の純白を見る時、自然の色の美しさに惚れ惚れしてしまう。
私はいま、スピード感と緊張感が好きだった都会を離れていわきに暮し始めたが、まだ特別なことはできない。
早朝に起きて散歩に行くには朝寝坊であり、特別な自然を求めて登山などするには足弱で、遠方ヘドライブしたいと思っても運転免許がない。行動範囲がすこぶる狭いおばさん生活と一言えよう。
でも、玄関を開けて外へ出れば、左手遠くに阿武隈山地のなだらかな山並が見え、朝日に美しい緑色を見せたり、炎上する秋の落日を迎える黒々とした安定感を見せたりして、私を感動させる。視界には畑も見える。一直線の畝が平行して並ぶ美しい畑を見ると、畑作りのみごとな腕前に驚く。青々とした野菜がぐんぐん成長していくのがわかる。
この畑に作物を作っていると思われる農家が前方の高台に横並びに三軒見えるが、その大きな三軒は北風を防ぐためだろう、屋敷の背後に屋敷杜がある。その樹木も目を休ませてくれてうれしい。柿、かりん、梅、柚子、蜜柑などの木々も混じり、近づくと花や実が鑑賞できる。その農家の前の土手にさきごろ曼珠沙華が群れ咲いた。私は歓喜した。
空き地は秋草の花時である。俳旬の季語でいうなら「花野」であり、咲くは「草の花」である。可憐で健気な草々の花は、
草いろゝ おのゝ 花の手柄かな 芭蕉
の句を思い出させて、草の花と芭蕉に感じ入る。
それに、ささやかな我が家の庭には紫陽花がまだ咲き継いでいる。青く大きな花毬が五つ、重り傾ぎながらも枯れる気配はない。優雅に咲きつづけている。驚きながら喜んで、カメラを向けたりしながらうっとりと眺めている。
狭い行動範囲のうえに、不便とも言える日常生活の中で、身近な自然に感動しながら暮すことができるのは、四十余年に及ぶ都会の日々では触れなかった自然に、いま再び触れて、新鮮な感動を味わうからである。感動を与えてくれる日々の自然をありがたいとさえ感じる。
いわきの暮しは8ヵ月過ぎた。田の黄金色も刈られて消えた。晩秋が過ぎ、やがて冬が来る。東京と比べると、冬は厳しい。風が強く、寒さが長い。その冬を感動して暮せるか、少し不安で、少し楽しみ。
(『月』発行人)
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