テニスコート
池部淳子
家を出て右へ250メートルぐらい行くと、かつて通った中学校を見渡せる土手の上に出る。校庭を向いて右側にあった校舎が、今は真反対の向きになって、校庭の左側になっている。
この勿来第一中学校で、私は3年間テニスクラブ部員としてテニスに明け暮れた。校庭の角、土手の上の二本の桜の大木の枝がたわむ下に、今はテニスコートが二面。
私の時は一面だった。しかも、コートは野球や陸上競技やバレーボールと一緒の大校庭の隅にあったので、ボールをはずすと野球部の練習の中に入っていってしまう。よく、野球部員がテニスボールを投げ返してくれた。手の空いている部員はボールの行く方向に横一列に並んでボールを拾った。
一面しかなかったコートの使用は男女交代。日が暮れてボールが見えなくなるまで練習した。テニスクラブ担当の先生も熱心で、ショートパンツを穿いてラケットを持ってやって来る。勿来一中のテニスクラブというのはこの先生の情熱もあって地方では名高いものとなっていった。
やがて校庭でなく、校舎の間の空地にテニスコートが一面作られて、女子用となった。一方は土手、三方は校舎のこのコートは打ち損じてもボールを追いかけることはない。男子生徒の羨ましそうな目を余所に、伸び伸びとラケットを振った。先生が段取りをして、近隣の中学校と練習試合もした。評判通り強いチームだなどと言われて舞い上がっていた。
3年生の春か夏か、テニスの郡大会が開かれることになった。あるいは大会は以前からあったのかもしれない。片田舎の中学校が今年は初出場しようと担当の先生が頑張って私たちを率いて行ったのかもしれない。今はもう知る由もない。
さて、その郡大会だが、試合は軟式ダブルス。私の組は長身美少女のSさんが前衛で、私が後衛。強豪として注目された私たちの組だったが、実はとんでもないことになった。
一、二回戦とかろうじて勝ち上がっていったが、それは、私たちが強かったからでなく、相手が下手だったからである。
準々決勝になった時は、今はもしかして悪い夢をみているのではないかと思うほど、私はひどい状態に陥っていた。腰が落とせないで体は棒立ち。ボールは打点が高すぎ。ボールを打っても体の重心が移動しない。いつもは弾丸のように飛んでいったボールがその時は山なり。前衛のSさんもまるで私の状態に感染したかのよう、スマッシュの名手が空振りする始末。あまりのことに自分自身呆然としているうちに負けてしまった。
いま眼下に二面のコートを見ると、楽しかった練習、呆れた試合を思い出す。あれは人生のはじまり。あらから何十年。いつも平常心でいるにはどうすればよいか。私に課せられたテーマだった。
(『月』発行人)
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