若松さま
蒲 幾美
実に悠長で哀愁を含んだ百人余の大合唱が東京のKホテルの宴会場に響く。一音一音は長い抑揚で打ち寄せる大波のように、そして漣(さざなみ)の静けさにスローの流れの正調「若松さま」から、悦びや悲しみの山国農民の歴史が胸に迫ってくる。それを打ち消すように明るいリズムに変り三味や〆太鼓が加わる。同時に待ちかねた盆踊りになってゆく。
「めでためでたの 若松さまよ 枝も栄える葉もしげる
ツイタトテナントセズ ゼンゼノコ マンマノコ」
と、囃子が入り大太鼓が「デーン」と鳴る。この郷里の会へ友を誘った。初めて聞く若松さまの哀愁の唄声に感動した友は、ぜひもう一度聞きたいと言う。
十数年前までは郷里の会は、語り呑み盛上るだけで昔からの正調若松さまを唄える者がいなかった。若松さまの盆踊りを再現しようと提唱、民謡保存会の協力を得てホテルでの合唱となったのである。
町の祝賀行事などには隣県から民踊おわらの出演などあり、地元にいくつもの古民謡があるのだからと、有志に呼びかけ保存会が結成。囃子のゼンゼノコは銭金(ぜにかね)、マンマノコは米(こめ)。お金や米が不足の暮らしでも、強い根性で生きるのだという天領飛騨びとの伝承の民謡なのだ。
民謡から盆踊りに目を向けると、仮装を競い合うような踊りになっている。”浴衣がけで誰でも参加して手足を伸ばして踊る盆踊りにしたい”とまたやる気が頭をもたげた。私は若い頃から盆踊りに参加したことがなかったが、保存会を呼びかけた責任があり否応なく踊らねばと思っていた。
当時の婦人会長は旧家の旦那衆夫人と恒例になっていた。会長のS夫人家は大地主で、財産管理から旧家の仕来(しきた)りや家事一切は家長に代って番頭が支配、大勢の使用人がいて、夫人は外出の用などない昔の陣屋郡代の奥方のような暮らしだった。
盆踊りが近づくと私はS夫人に「婦人会の代表で一緒に踊りましょ」と冗談に言ったのだったが、まさか踊りに参加されようとは。素直な育ちの良さに敬服し一言の重さを反省した。「踊り初めは恥ずかしかったが、だんだん楽しゅうなりましてナ」それからは郵便局や銀行にも行けるようになったなど悦びの体験談を思い出す。
その頃町の大寺の住職と民謡の話になり「正調若松さまをオーケストラの演奏で実現したい。それと境内を開放するから『婦人と子供の図書館』を建てようや」と言われた。当時、町に図書館はなかった。長くアメリカで布教活動中檀家から呼び戻された住職だった。
住職は仏界に旅立ち、保存会に奔走した人たちも遥かの国で唄い踊っているだろう。
時折若松さまを口ずさんでも、どこかの節回しが違い未だに音程が出せない。
(川崎市 郷土史研究家)
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