「花のころ」  蒲 幾美  (随筆通信 月52より)
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花のころ
蒲 幾美

 花どきになり野山も明るく華やいでくると遠い日の思い出が重なる。

 小学生のころ春になると、町から二里(8キロ)を歩いて山村の父の里の農家へ妹と泊まりがけで行くのが楽しみだった。林の陰からキジや山鳥が飛び立って驚き,山清水を飲んだり疲れてくると父は歩きながら地元の渕の河童がおろ伝説や昔話をしてくれた。

 山桜が美しい山の裾に、庭を隔てた構えの平屋で外水屋みんじゃがあり、山水が音をたてて水槽から溢れ落ち、手桶には野の花や野菜が投げ込まれていてすべてが新鮮だった。いとこ達は喜んで迎え、薄暗い土間の板壁の横から馬がぬっと顔を出した。馬も一つ家で寝起きしている。台所にわは家族の食事や作業場になり、客間でいは農閑期の仏事や祭りなど村人の集合所も兼ねていた。田植どきには分家の伯父が馬を曳いて我が家の田植の手伝いに来てくれた。

 一九六二年ころの春、私は飛騨と信州の国境に近い御岳おんたけの裾野、日和田村へ馬大尽といわれた原家を尋ねる目的で出かけた。

 原家は江戸時代までは阿多野あだの郷(高根村、朝日村)の大名主で日和田の田地田畑でんじでんばたは殆んど原家が持ち、常時持馬は二千頭、屋敷内には馬舎があり種馬八頭、使用人は男衆女衆おとこしおなごし三十人がいたという。地主旦那でもあり、また馬の親方としても君臨していた。

 馬小作とは「親方から馬を借り養い、子を産ませ、子馬は市に出して売却代は親方と小作で折半する」仕組みで、小作は原家からの借金を差し引かれると手元には僅かしか残らなかったという。木曽福島まで六里、木曽の馬市まで、よその土地を踏まずに行けたとか。支那事変には軍馬五百頭が徴発されたそうな。

 原家の屋敷を囲む石垣の上の塀、今にも崩れ落ちそうな通用門を入ると広い空き地の左手に火事跡かと思う柱や板、土砂などが積み重なっている無残さに息を呑んだ。原家の当時の住居は庭あとの右手だったと思うが記憶にない。

 古い資料によると母屋と別に間口十二間奥行五間の二階建ての馬舎があり、一階は馬舎があり、二階奥には「傘天井」で有名な座敷があった。

 原家の前の川原の馬市には全国から馬喰ばくろうが集まるが、かれらを泊める座敷は牡丹の花を中心に、傘のように桟を張ったドーム状の豪華な天井、磨きこんだ杉の床の間や欄間の彫り、百人前の布団を番号順に敷くと一本の傘松が枝を広げた絵柄になり原家の屋号松屋を誇示していた。

 原家の当主は老齢で病体、東京の女学校出という中年の妹美枝子さんとの、一人暮らしだった。文化財にとの申し出を断り「自分の建物を自由にできぬ不自由は否だ」と。自然のなすままに、悔いのない王者のいさぎよさを思った。
 「またいらして下さいネ。五月には牡丹が咲きますのよ」
美枝子さんの澄んだ声が甦る。

 牡丹も桜も樹々の香りも子供の頃に肌にしみている私の、郷愁の春の彩りなのである。

(川崎市 郷土史研究家)

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随筆通信 月 2007年 4月号/通巻52号

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