「相馬野馬追」  池部淳子  (随筆通信 月56より)
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相馬野馬追
池部淳子

 紫陽花が庭を彩っている。雨が降っている。まさに梅雨。

 雨の日は行動を急がず、心を鎮めてしばし思索の時と思う。主宰している俳句会の句会の席上で「俳句は花鳥諷詠だと、美しい景色ばかり詠んでいていいのか疑問を持つ。人生ってそんなものばかりじゃないと思うが」という声があがった。

 ああ、これはかつて私が発した問いだ。

 よくある道筋で私は俳句を作り始めた。仕事上の知人から誘われて十人余の句会に参加し、その会の指導者に勧められて野澤節子の主宰する結社『蘭』に入会した。

 丁度四十歳代で働き盛り、活動も激しく、失敗も成功も明らかな、めりはりの効いた日々だったため、この波乱の人生を乗せるには俳句は小さすぎて役に立たないと不満だった。

 だが、人生にはさらなる波乱があった。母の脳血栓の発病に始まりほぼ8年におよぶ両親の介護の歳月で、自己表現の手段として残ったのは、手元でできる俳句だけだった。自分のための時間がない。17音の表現が最後の砦だ。あなどっていた俳句に追い詰められた。私の俳句はここが出発点だった。

 人生の波乱をわずか17音にどうやって表現するのか。思想を詠むか、感情を吐露するか、伝統はどうするか、時代をどう表現するか、哲学が必要か、日本の文芸は何を表現しようとしているのか、詩とどう関連するのか。名句はなぜ名句なのか。あちらに迷いこちらに迷い、理屈っぽく不安な句を作り続けた。

 とことん迷って、一体自分は何を言いたいんだと自分に問うた時、溺れる者は藁をもつかむで、かすかに藁が見えた。そのとき俳句をあなどることはなくなった。

 「俳句は美しいものばかり詠むのか」と疑問を投げかけた会員も迷いの道に踏み込んだのだ。

 自分が感動を受けたものは何か、告げたい思いはどういうものか、知らせたい考えはどういうことか、しかもそれを17音という短い言葉で表わす。夢であり、冒険であり、至難の技であり、自分を知る手がかりである。

 作者はそれぞれ俳句に人生を乗せようとする。だから俳句にはひとりひとりの物語がある。句の背後に思いがあり、考えがある。

 「ミステリーの王道が犯人捜しなら、純文学の王道は自分探し」と語った一文が新聞にあった。その意味なら俳句も短いが純文学だと声なく叫んだ。

 紫陽花にもひとりひとりの物語。
  あぢさゐの落花は陶の破片なり    山口 誓子
  紫陽花は重たからずや水の上     富澤赤黄男
  紫陽花やはかなしごとも言えば言ふ  加藤楓邨

(『月』発行人)

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随筆通信 月 2007年 8月号/通巻56号

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