「叔母と俳句」 池部淳子  (随筆通信 月59より)
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叔母と俳句
池部淳子

 今年の暦がもう薄くなった。来月十二月が過ぎれぱ、私が二人の叔母を中心に、俳句会を開いてから丸十年になる。

 東京で暮らしていた私と妹はいわきに住み脳血栓で半身不随になった母を半週交替で東京から通い、五年間介護した。その間、叔母たちは私達姉妹に様々な協力をしてくれた。母の死後、私はお礼に「晩年の人生を豊かにしてあげよう」と意気込んで、東京から通いながら月一回俳句会を開き、俳句を教えた。少人数ながら俳句会の基本に則り、毎回、選句、披稿、互評、講評を行い、時には名所、名画を尋ねて吟行もし、忘年会や出版のお祝会なども楽しんだ。

 こうして書くと良いことばかりのようであるが、最年長の叔母が句会を始める時七十歳だったが、今年八十歳になった十年である。思いがけないことも起こる。東京から毎回早朝定期的に乗っている列車が台風で遅れて定刻に着かず、叔母たちを心配させたこともあった。叔母たちにも異変はあった。三人のうち二人が心臓の手術を受けた。一人は外出先で心筋梗塞となって救急車で運ばれ、血管を広げるバルーン手術をうけ、間一髪命を取り留めた。 もう一人の叔母は定期健診で心臓狭心症とわかった。彼女は切開手術を受けた。叔母は二人ともそれぞれ、この大手術にもかかわらず、入院中のベッドの上で句を詠んで、私に届けた。

 こうしたことを乗り越えた叔母たちの十年である。

 旬会には私と叔母三人の他に、叔父一人と、少々若い女性二人が加わり、出句だけのメンバーも二人ほどいた。叔父だけは作句の経験があったが、あとは全員初心者。指折り教えて作りはじめた十年であった。

  十年経ってやつと落ち着いて句が作れるようになった。肩の力を抜いて自分なりの句を作っていく段階になった。

  実は三人の叔母が俳句会を続けたことによって俳句以外に得たものがあったとこのごろ思う。月一回の俳句会に出句するため周囲の自然や事物に関心を持つようになったのはもちろんだが、辞書を引いたり、メモをとる習慣がつき、言葉への注意力が養われた。また、私が俳句会は親類縁者の多寡に関わらず「公式」であると明言したので、叔母たちは当日は身繕いをして、礼儀を正すよう心がけ、若い人たちにも敬意を払って会話の内容にも注意し、良い一日にしようと心がけているのがわかった。

 こうした緊張や努力は一回一回は日立たない。だが十年続くと自然に効果が表れる。その人の持ち味になって、叔母たちの人間性を支えているように見える。

 これからさらに年月が経つ。叔母たちには一句一句と作りながら、一日一日をゆっくりと、自分のものにしてすごしていってほしい。

(『月』発行人)

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随筆通信 月 2007年11月号/通巻59号

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