「白真弓」雑感E帰雲城 蒲 幾美 (随筆通信 月59より)
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「白真弓」雑感E帰雲城
蒲 幾美

 一望白皚々の白川郷が三月末頃からまだら雪の山肌や野に、おおばこ、すみれ、山吹やいたどり、マンサク、アセビや茶花が咲き出し山桜がいろどる。野谷庄司の山々に残雪がかがやき、春が一どきにやってくると急に農事が忙しくなってくる。

 雪解けの渓川は水量が増し急流となる。木谷から村の本通りまで行くには川越えの篭渡しを渡らねばならなかった。村の本流である白川はいくつもの谷川が合流する激流で川幅を広げながら北へ向って流れる。

   飛騨涼し北指して川流れをり  林火(一九五五年)

 この句はのち高山ふもと社、古川朴の葉会で宮川べりに句碑となった。白川は庄川となり、神通川となって、富山湾へそそぐ。

 白川郷は昔は加賀藩の流刑の地になっており、国境までに二十数ヶ所の篭の渡しと番所があつた。番所では物資の出入りに税を取ったり、不審者の取り調べなどをしたが、村人が幾度も橋梁の架設を願い出てもその都度脚下され明治になって初めて橋が架けられた。

  急峻な山国の住人たちは、山崩れや地震など度々の天災の危険な暮らしの中で、自然にさからわず浄土真宗の輩師観にも似た環境の中で生きてきた。

  木谷から近い保木脇村にあった帰雲城が天正十三年(一八三O)十一月二十九日の大地震で三丈ぱかり沈み、内ヶ島城主は将兵もろとも全滅し、周辺の屋敷数百も埋没したことは子供の頃から聞いて育つており、勇吉も他の町や村人とは違う心構えを持っていた。

 盆になると″回壇″といって高山ご坊の僧侶が説教に来る。キリボンともいい年三回二月と八月仏事の農休みだった。秋の祭りより早くやってきた。奧飛の町や村には,″招待″と筆太で書かれた和紙がそこここに張り出された。これは越中片掛村の坊さんの法話だったが、お笑い芸人のように達者な話術で人気があったと祖父から聞いたことがある。

 盆になると木谷地方に白い山百合が咲き誇り気高い香りを放った。どうしてこの地方に白百合が咲いたのか不思議だが、どの家でも盆には白百合を墓前に供えることになっていたという。帰雲城の下に眠る遠い先祖や、安らかに眠る縁者へ、親子連れ立たってお詣りをする。両親と一緒に居られるお盆は勇吉にとつても楽しいことだったと思われる。

 テレビの番組で芸能やスポーツの有名人が突然漁村や山村を尋ねて宿を乞うのに驚くことが多い。視聴率を上げるための企画だろうが、訪問者の常識や人柄も伝わり、受けた側の狼狽や歓迎の様子など・・・。そうした中で広い家は子供らは遊学や就職に都会へ出て、中・老夫婦が家を守っている。大家族の白川郷と同じに古い家族制度が変っていくのであろう。

(川崎市 郷土史研究家)

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随筆通信 月 2007年11月号/通巻59号

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