「白真弓」雑感F女たち 蒲 幾美  (随筆通信 月60より)
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「白真弓」雑感F女たち
蒲 幾美

 若社人りした勇吉は普段にも増してシンガイ作りに励んだ。来年は高山祭り行きの公認の旅ができる。

 雪が舞いだす中でも漬物用の菜洗いや村の共同の大窯場では味噌豆や麻などを煮る。外仕事から屋内作業になり、男らは農家一年分の蓆や叺、草鞋、蓑笠から藁靴、輪かんじきなど、女たちは家事のほか麻や絹織りが一家の大切な現金収入になっていた。

 昔は3mも積ったとりえ婆さんは言う。こうした深い雪の中では年中絶やさない囲炉裏の楯火と煙りで暖かいので男女共足袋ははかない。生活に欠かせないのは藁しべ(飛騨言葉ではすくべといい藁の柔かい外皮)で、綿の代りに布団や保育桶に入れる。乳幼児の負んぶは母親の素肌に入れ自分の着物と肌のぬくみをねんねこ代りにした。毎年同じことを繰り返しながら近づいてくる正月を待った。

 木谷の或る老婆は、村を出て町で暮らしたい、家のためだけに働いて世間を知らずにおばたちのように暮らすのはいやだと思つていた。おぱたちは、わしらが働いて家を守ってきわしたという自信と誇りを持っていた。「私の母親は『誰に気がねせんでもええ、自分の好きなようにせよ』と陰であとおしをしてくれたので、村の法度を破って高山へ出て煮売り屋(食堂)で働いた。年をとり、大家族もすたれた頃故郷へ帰って着ましたなァ・・・」と語った。

 萩町のりえ婆さんは十七歳の時、朝3時に家を出て水平峠の頂上で夜が明けた°元田の村落で昼食、角川の木賃宿に泊まり、翌日は雪の上をすべって三の瀬へ出たという。高山の田辺酒造に奉公したが下駄を履いたことがないので歩きにくかった。そのあと富山の上端にも働らきに行ったそうな。

明治から大正にかけて大'家族も崩壊してゆき、山村を出ることが時代の流れになった。

飛騨には安永(一七六九)から天明(一七七二)にかけて日本の農民史にのこる農民一揆があり(大原騒動)、代官大原彦四郎・亀五郎の悪政に農民が立ち土がったのである。

徳川天領のもとで代々暮らしてきた飛騨びとにとって維新になって梅村知事の糸問屋の特権や鉛・硝石など各種の商売を許可制にして税金を取る。商人や町民の暮らしの不安、それに山方米(山から木材を伐り出す者に格安に払い下げる米)の廃止など、不穏な空気の中で高山で起きた怪火が一揆の口火になり、たちまち飛騨三郡に広がり暴徒は一万を越えたと言う。

満州事変から支那事変、第一次世界大戦。戦争や内乱はいつまでも続き、天災も忘れたころにやってくる。  

時世とともに人間のいとなみも、女たちの心もめまぐるしく変っていく。  

 (川崎市 郷土史研究家)

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随筆通信 月 2007年12月号/通巻60号

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