「白真弓」雑感G食事
蒲 幾美
人の食の嗜好は子供の頃の食事で決まるというが、食事は労働によっても違ってくる。
木谷の日常の食事は稗を中心とした稗飯(米二分入り)で、他に糠飯(稗に糠をまぜたもの)や、粉(マ夕稗の粉)、栃餅(栃の実の粉の餅)。マ夕ビエは朝鮮びえともいった。漬物と味噌汁は毎食。汁の実は季節の野菜、冬は大根干しで
アサハン ( 4時 ご飯 粉 栃餅)
マエビリ ( 9時 ご飯 夏だけ )
ヒル (11時 ご飯 )
ナカチャ (12時 粉 栃斜 南瓜)
コビリ ( 3時 ご飯 )
ユーハン ( 6時 ご飯 )
ヤショク ( 夜 馬鈴薯 )
の七回だった。
粗食と思われていた山村の前述のような内容を見ると、グルメ時代のいま、最高の栄養のバランスのとれた食事と思われる。
古老たちの話によると、勇吉が木谷を出たのは大喰いで母親が家族に気がねしているのを思ったのだろうという。村史には″誰よりも食欲旺盛、自分ながら居ずらくなった″とあるが、私は勇吉には食とは別に自分の知らない世界を自分の目と体で試したいという意志がひそんでいたのだと思う。
今は廃村になった合掌村の加須良へ不在投票の取材に軽トラックで出かけたことがあった。深い渓谷の道は突然ムササビや野兎が前方を横ぎる。身ぶるいする怖さを思い出す。
合掌造りの外では老婆が蓆のワラビをもんでいた。「写真をとられると命がちぢむ」と断られたが話しかけると案外明るく、山菜のイラクサやタラノキ、ウドのあく抜きなど教える。生で食べられるイタドリやスイバ、季節の木の実など山村の子供らはお八つには不自由なく育った。
労働に明け暮れた山国びとは明治の徴兵検査にはほとんど甲種合格だつたという。こうした素食の満腹感が身についていた者には、町の麦飯や白飯はたよりなかったらしい。白川郷出身者が寄れぱ「稗の飯がたべたい」と言い合った。時代の流れで稗や粟などスーパーで入手できるが殆んどが中国産というのにも驚いた。
高山の呉服商の番頭が木谷ヘ今年の絹の買い付けにやってくる。旅の行く先々で得た情報や町の旦那衆の暮らし、町民の生活など伝えることは営業マンの腕にかかっていた。
番頭は家長に買い付けの予約をとり「来年は是非高山祭りに来てくれんさい」と引上げた。
春が来て二泊三日の盲同山祭りに行く勇吉を見送る母親いねは、勇吉がこのまま東屋に帰らぬことを知っていた。
母と子の心は別れの寂しさつらさに耐えての出発だったと思われる。
(川崎市 郷土史研究家)
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