人生観 池部淳子  (随筆通信 月62より)
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人生観
池部淳子

 去る一月二十九日、午後三時ごろ外出から帰ってみると、留守電が点滅していた。再生すると「今日は残念なお知らせをします。昨日、田村勝夫会長がなくなりました。明晩がお通夜、明後日が告別式です」と、かつての専務の声がした。

 人生感に大きな影響を与える人物の幾人かに出会うことは、多分、誰もが経験していることだろう。

 私にとって田村勝夫サイマル出版会会長はその一人である。

 私は社会人になって働くときはできるだけ文字にかかわる仕事をしようと考えていた。最初は新聞、次に編集、そして出版と文字に沿うように仕事を続けた。

 その間、印刷物の文字の作り方は大きく変化した。私が新聞記事を書いていた頃の文字は活字で、一字一字活字を並べて組んでいた。やがて写真技術の応用で、印画紙に文字を焼き付ける写真植字(写植)によって文字を作るようになり、それを印刷物の大きさに合わせて作られた台紙というものに貼り込んでいく方法になった。だが、コンピュータの登場によりこの方法は衰退。今はパソコンで誰もが文字を打ち出せる。

 私が東京・赤坂にあった出版会社サイマル出版会に勤めたのは四十歳台で、会社が解散するまでの、ほぼ九年間だった。写植全盛からコンピュータ製作に移行し始めた時期にあたる。

 当時、田村勝夫社長が編集を兼務、深夜までともに働いた私にとっては、今も「田村社長」である。

 会社は男女平等、実力中心であった。たとえば、社長のお茶は秘書がいれるが、それ以外は部長をはじめ全員自分で自由にお茶を入れる。定刻に女性社員が男性社員にお茶を入れるという当時の社会からすると驚きのことだった。

 役職は部長以外殆どない。編集者は男女ともそれぞれ原稿を担当していて一冊一冊仕上げて発行していく。田村社長はそのための情報や見解を聞く耳はもっていた。温情も深いものがあった。が、技量については厳しかった。怒声も飛んだ。

 私の人生観を変えたのは、彼の追求度の深さである。当時装丁も担当し始めた私に写植の一歯、つまり0.25ミリの曲がりの判定を要求した。「仕事は極限まで」だった。

編集力も学んだ。筆者の原稿を一冊の本に仕上げていく時、見る見るうちにその本に新鮮で上質な個性を創造していく。一つ一つの原稿に、それぞれ本として理想があることを教えられた。

「自分の求めるところを生きる」姿を見せてくれた人物、その自由さと厳しさを教えてくれた人物であった。

通夜に行くため、中央線の荻窪駅に着き、駅を出ると「田村勝夫葬儀式場」と矢印のついた大きな看板が目に入った。それを見たとたん、涙が溢れてきた。

 (『月』発行人)

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随筆通信 月 2008年 2月号/通巻62号

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