「白真弓」雑感H離郷
蒲 幾美
本谷村若社(青年団)入りした勇吉らの高山祭りは先輩の治作の案内で二泊三日。行き帰りは六厩の寺に泊まる。少年らには待ちかねた楽しい旅に心が弾んだが、勇吉には東屋には二度と戻らぬ決意だったと思われる。
村史によると、明治20年頃までは、二泊以上の旅は名主へ届けることとなっており、勇吉は村の逃亡者とみなされていたが、怪力の関取として全国に名を響かせていたので、逃亡説は自然消滅となったと思われる。
六厩を出ていくつかの峠の山径を登りつめると突然視界がひらけた。青空に双六、槍、穂高の嶺々、右手に臥牛山(乗鞍)が見える。
遥か眼下の町を分けて宮川が流れ、朝日が彩る七色のひかり、金銀の輝きに少年らは生まれて初めて出会う美しさに言葉を忘れ立ちつくしていた。この時高山祭りの屋台(山車)であることを知らなかった。
勇吉は、"盆地の中の高山の町が生きている。日本は広いのだ。遠くへ行けばもっと違う世界がひらけるかもしれぬ"と思った。
町内毎に氏子自慢の屋台が並ぶ。屋台の最上段に取り付けられた金地の大鳳凰一対が、日の光を受けてキラリと輝くさまは実にみごとだ。神楽台の自慢は道開きといわれて総屋台の先駆をつとめること。台輪は黒塗りのけやき造り、下段の後部の出入口以外は各柱間を朱色のコブラン織の幔幕で被い、その上面に白彫八匹の獅子を纏付した装飾となっていて、中段の特徴は極彩色のボタン彫刻が施されている。
各町内から屋台曳航して陣屋前のお旅所広場に曳き揃えられる。飛騨匠の技を集めた彫刀の冴えは特に一本で籠の中の鶏を繰り抜き彫をした至芸の作品が多い。
これらの屋台を代々受け継いだ人々は、平成の世も屋台からは離れて暮らせないと、同じ町内に住んでいる。天領ひだびとの生き甲斐となっているのだろう。
みだらし団子を焼く醤油の匂い。人混みの町の両側に並ぶ出店。少年らは我を忘れて祭りの雑踏を押されながら歩いていた。
勇吉は今だ!と気づいた。賑わう町並みをぬけて静かな寺町の照蓮寺の本堂に合掌し縁の端を借りてお握りをかじった。「若いの、庫裏にお茶があるで中でゆっくり食べなはれ」老僧の声に驚き「勿体ないことで、有り難いことで...」と頭を下げた。これから尋ねる大佐は「次の坂をおりると一帯は大佐が地主じゃで、気張りなされヨ」と優しく教えられた。
間口二十間余の屋敷の軒に下がっている大杉玉を仰ぎながら勇吉は意を決して"大佐"と染め抜きの浅黄ののれんをくぐった。
(川崎市 郷土史研究家)
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