「白真弓」雑感I大佐 蒲 幾美  (随筆通信 月63より)
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「白真弓」雑感I大佐
蒲 幾美

 私の幼い頃、駄菓子屋で子供らが一銭二銭で鉄砲玉(黒飴玉)を買うのを羨ましく眺めた。祖母は買い喰いは許さず煎餅は石油カンで買い、白い麦飴のカンはいつでも手の届く所にあったが、食べたいのではなく「ご免」(今日は)と言って買いに入ることが魅力だった。平成の今でも「ご免」が残っている。「ぐめーん。まめでござるかナ」など。

 祖母は高山の町へ私を連れて出かけ、或る店の露地が次の通りに抜けることを知っていて「ごめんなさりましよ」とためらいもなく本町へ。"江戸っ子"という飲食店で暖かい甘い卵焼きを食べた記憶がある。

 勇吉は大佐ののれんをくぐり奥へ続く広い露地に向かって"ご免"と挨拶した。男女の話し声きこえ、出て来た男衆は大男の異様な風体に引き込んで入れ代わる。「ここは大佐じゃが、どこか間違えたのでは?」と相手にしない。神輿行列を知らせる笛太鼓の気忙しい獅子舞が近づいてくる。氏子総代の大佐の屋敷前では御輿は休憩となり、男衆は御神酒や供え物を神前に運ぶ。

 勇吉は土間の片隅で立っていた。カタカタと下駄をならしてきた若い女衆が「あれっ!まだおったのかあ」とびっくり「旦那さまはみこしの巡業がすむまでござらんで土蔵の横で休んで居なはれ」と目立たぬ場所を教えた。

 このおなごしの言葉の綾が白川郷と似通っており、隣村天生村生まれのおさよで、白真弓の障害の親しい友となったのである。

 夕暮れ近く「旦那さまのお戻りじゃ」と番頭の声がした。

 勇吉は大佐で働かせて貰いたいと必死で願う。「働くということはただ体や力を使う事ではない。頭を使う。仕事の計画が大事なことなのだ」でっぷりと貫禄のある大佐の言葉の重みを勇吉は噛みしめて聴いた。ここで幼名は奥右衛門と改名され、大佐の男衆となり酒蔵の仕事や酒造りの大わたし(木製の大桶)の扱いなど日々真剣に働いた。

 大わたしと言えばすぐに古い昔を思い出す。

 酒蔵の並ぶ古川町の瀬戸川沿いを林火師と林火の愛弟子野澤節子氏を案内した時のこと「酒蔵の中を見たい」と言われた。町の古い素封家の酒造店へ見学を申し入れた。当時は今と違って観光客に蔵内を見せることなどなく、杜氏の案内で酒蔵の前に立ったとき、私は肝をつぶした。林火師につづいて和服の節子氏が蔵の中に入り梯子を登って発酵するもろみをのぞかれたのである。夫人は「私がこの家に嫁して三十年一度も酒蔵に入ったことはない...」と。女人禁制の古いしきたりを節子氏は知らなかったのだ。

 (川崎市 郷土史研究家)

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随筆通信 月 2008年 3月号/通巻63号

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