「白真弓」雑感M色即是空
蒲 幾美
豪放磊落の鉄舟は剣道や禅を極めたすえの世界平和論者であった。尊皇攘夷の発起人として山岡鉄太郎、清川八郎ら三十三人が連名で幕府へ連判状を提出したが、文久二年四月十三日の夜、清川八郎が攘夷派の水戸浪人に殺されたと聞くや、すぐ同志の連判状と清川の首級を取って来いと身内の者に命じた。現場にはまだ検視の役人は来ておらず、懐の連判状と清川の首級は取り戻した。首級を井戸の水で洗って仏壇に供えて拝み、酒樽を首桶の代りとして雑木林に深く掘って埋めた。八郎三十四歳だった。連判状の三十名の命は鉄舟の機敏な行動によって助かったのである。
世相は目まぐるしく変わり、よく万延元年(1860)三月三日桜田門外で伊井大老が惨殺され、大政奉還、明治維新となる。
このころ鉄舟は病体であり胃癌と闘っていた。
死んだとて損得もなし馬鹿野郎 鉄舟
享年五十四歳。
私の子供の頃、祖母が比喩なのか唄なのか
西郷隆盛鰯か海老か
鯛に追われて逃げてゆく
と、唄っていたのを思い出した。なんの事かわからなかったが、鯛とは官軍のことだったのかと気づいた。
白真弓の土俵生活は嘉永より維新まで十五年に及んだ。生涯の師であり友であった鉄太郎をうしない気力体力とも衰えていたが、浦風部屋の看板力士としての勤めは続けていた。
安政六年春、丸亀京極候の抱となり、白真弓を遂洋荒五郎と改名。文久二年夏に讃州駒ヶ峯五郎と改めたが、秋にはもとの白真弓に戻り前頭筆頭に。慶応四年福山阿部候の抱となり浦風林右衛門と改めた。
安政四年六月二十二日晴から二十九日まで高山町
馬場にて興行に付毎日見物。二十七日暁地震三度。
相撲見物今日限りにて皆済の事。(富田礼彦手記)
大相撲馬場の興行は白真弓が勧進元で、興行の景気づけの幟が馬場近くに立てられていた。
大関境川浪右ェ門へ 森七より幟一本立
雲龍久吉へ 富田屋より幟一本立
大鳴戸灘右衛門へ 長茂八より幟一本立
和田原甚四郎へ ふじやより幟一本立
白真弓肥太右衛門へ 指田より幟六本立
響灌立吉へ 江戸差より幟一本立
一行を率いる年寄九重・福川親方は二ノ町村年寄(名主)川上方に宿泊した。行司は木谷八百吉、木村庄吉、木村庄之助であった。その時の番付もある。馬場とは後の東小学校のあった処である。
(川崎市 郷土史研究家)
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