「白真弓」雑感Nみくにち 蒲 幾美  (随筆通信 月68より)
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「白真弓」雑感Nみくにち
蒲 幾美

白真弓は病体であっても地方巡業に従い、ファンを失望させない。高山興行の時も白川郷木谷村に帰り、子供の頃の友人と遊んでいた。昔を思い出し棒押しなど子供ら五人で攻めたが奥右衛門は昔と々びくとも動かなかったという。高山では大佐のおさよさとも語ったことだろう。

明治元年(1860)江戸も寒い冬であった。奥右衛門の病が重いと聞いたおさよは木谷村東屋の家族と共に奥右衛門の看護に上京していた。

話す力もおとろえている。おさよは古里の様子など一生懸命語りかける。

合掌造りの東屋に沿う小川のせせらぎの音や川沿いの白いこてまりの花が浮かぶ…。 

 「おさよさ……みくにちを唄ってくれ……」

おさよは唄い出した。

  九月九日 みくにちでござる

  おとの九日 雪が来る

奥右衛門は嬉しそうに声を出した。

 「障子を開けてくれ」

ちらちらと雪が降っている。オオ雪だ!雪が降ってきた。枕辺の人々は奥右衛門が降らせたのかと驚いた。

雪が舞い出した中を奥右衛門は嬉々として古里の天界の風となっていった。

 享年三十九歳。(文政十二年(1829)―明治元年(1868))木谷村出身の力士。

 白真弓肥太右衛門改名浦風林右衛門、東京に病死す。一説毒殺せらるとも言へり、前頭筆頭を最上とし、遂に三役には上らざりき。

(飛騨編燃史要)

出世や知名度など考えたこともなく、大男と怪力のため力士の道をあゆんだ奥右衛であり、鉄舟の人間愛の精神に生きた奥右衛門が毒殺などされるはずがないと私は信じている。

聞きあるきをしながら色々の事を学んだ。

明治という時代はそれ程古いことではない。しかし殆んどの人にはずっと昔のことなので、自分のいま住んでいる場所が先祖がどういう思いで家を構えたかなど知らない。

天災(地震・水害)に強い場所だとか、いろいろあるだろう。家族構成が大家族から、若い者が就学や就職に郷里を離れてゆく。

人は思いを人に伝えるには、話すか書きのこすか、或は行動に移さねばならぬ。新しい時代の教育はパソコンを扱い、世界の動きまでも知ることができるし、考えの結論は○×の簡単なものになった。したがって日本古来の文字は読めても書くのは年賀状くらい。郵政省は民営になってもきちんと早く届けますと、しきりにテレビコマーシャルで言っている。

バス停一つの区間でも自家用車で。一戸に車2、3台は普通になっている。

長生きしたかったら、自ら動こう。爽やかな汗を出して。昔むかしのお嬢さんより。

 (川崎市 郷土史研究家)

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随筆通信 月 2008年 8月号/通巻68号

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