考える秋
池部淳子
日一日と秋の深まりを感じる。桜の葉がくすんだ色になってきた。
家を出ると、小さな祠のある小高い山(丘)が見える。祠のある山の天辺に向って階段が続き、両側に桜の木が植えられている。春には遠目に桜の開花から落花まで、日々見ることが出来、秋には二列の桜の木が周りに先立ってくすんでゆくのがわかる。目立たないけれど桜の葉の色が変るのが紅葉の始まりのような気がする。
季節の移ろいを身にしみじみと感じる時期である。
命あるものは移ろう宿命であると、真実感じる年齢とはあるものである。
私は最近自分の変化に気が付いている。それは何につけても、自分が自分を見ているという意識が起こっていることである。
六十歳を過ぎてもしばらくは行為を「無意識」で発動できた。「しよう」「できる」と思ったことは、判断の回路を認識するまでもなく、感性を無視して行動に移行した。多分体力を信じていて、行動に迷いの生じる間がなかったのだろう。結果を信じることができたのだろう。経験の蓄積が「ちょっと待て」と声をかけたとしても、成功した例の方へ意識が傾く。挑戦を楽しむ勇気も後押しをする。希望を生きるとでも言おうか。それが自然にできた。人間を信じてもいた。
だが、何事にもスピードを問われる生活を離れ、考える間ができたことにもよるのか、行動や思考に「人間としてこれで良いのか」「判断は正しいか」「これが本当に好きか」など、自分の選択とその結果想定をチェックしようとする自己がある。自己の思考の予習、復習というと大袈裟だが、「無意識に生きてはならない」と呼ぶサインが自己の中から出ている。
人生の過去が多くなって未来が少なくなったので、残りの時間を無駄に使いたくないという用心が働いているのかもしれない。若いときはやり直しが利く。だが、もうやり直しがきかないからせめて失敗はしたくないという願望が潜んでいるのだろう。それと過去の経験が多くなるので選択の結果を推測でき、こちらの面からも無駄をしないようにと考えるのかもしれない。
体力の問題もある。筋力が落ちる。軽々と走ることなどできなくなる。集中力、持続力も落ちる。自ずと自己の思考や判断は慎重になる。
自らが客観的に自己をチェックしようとするのは自己を守ろうとする防衛策なのかもしれない。
一方、判断の基準となるものが自己にある。自己を客観的に見ることによってそれが明確になってゆく。自己を見る目が自己の思想を掘り起こし、自分がどんな人間になろうとしているのかを少しずつ知らせてくれる。秋はやはり物思わせる季節である。
(『月』発行人)
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