冬の花
池部淳子
十二月に入っていよいよ冬らしくなっていくはずのいわきであるが、まだ思うほどに寒くはならない。紅葉が本格的に美しい色になっている状態である。
かつて私も通った小学校の校庭の、二十メートルは越そうかと思われる見事な大銀杏は冬晴れの透けるような青空に、黄金の大円錐の迫力で立っている。
町の大通りから外れて少し奥まったところにある国魂神社の二股の大紅葉も紅の妖しい程の美しさを漂わせている。
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 鷹女
この句を思い出しながら、つくづくとその真紅に眺め入ってしまう。
夕刻散歩に出れば、畑や道の端に傾きながらも冬菊の花が咲いている。葉は枯れながら花の色は鮮やか。花色の濃度をさらにあげているような風情なのである。
人生を四季にたとえて色で表わす言葉に、青春、朱夏、白秋、玄冬という言葉がある。人は玄冬(黒い冬)に向っていくのだ。
だが、玄は「玄人」の玄で、人生の玄人、つまり人生の道程で熟達した時期が「玄冬」であるという。
私の年齢も四季で言うなら「玄冬」にさしかかってきたと言えよう。樹も若葉の頃は生命力に溢れ、輝いていて、見るからに美しい。だが、やがて冬に近づき、樹は枯色になって変貌してゆく。しかし、これも命である。
この時思う。この紅葉のくれないの色、銀杏黄葉の真黄色、冬菊の搾り出すような臙脂色、赤、紫、黄色など、この深く濃い色こそ、生きている樹々が見せる「冬の花」なのではないか。
寒い冬を越しながら待っていた春は人に希望を持たせ、春の花は桜をはじめ命の豪華さをみせて、その美しさに人々は感動する。だが諸行無常を惜しむ思いと共に、冬の紅葉の美しさにも人は感動する。質はちがっても同じく感動させるのである。
人もまた「若さの春の花」だけでなく「人生の冬の花」を咲かせることができるのではないかと、この頃考える
(『月』発行人)
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