老いのつぶやき G七夕
蒲 幾美
昔むかしの若い頃、体力に自信を持ち、自分だけは病気にならないと自負していたのが風邪をこじらせて咳をしている間に胸に大きな空洞ができていた。
東京の砧村の旧陸軍病院で軍医として執刀していた義弟からすぐ上京せよ手術だと連絡があり、両親や妹が高山線のT駅へ見送りに来ていた。発車まぎわ妹はハンカチで眼を被っていた。父は私の耳許でハッキリ言った。「念仏を申せよ」と。父は私と永遠の別れと思っているらしかった。私はまだ死なないよ,生きていっぱいやらねばならないことがあるのだからと,心で叫んでいた。
痛みもない、食事は食べられる病院での生活は退屈で、そんな患者らは家族を思い,外出の許可を待ち、老若男女を問わず刺激を求めていた。夏の七夕も近づいた頃、患者らは砧村の竹薮で笹竹を採って来た。思いおもいの願いごとを短冊に書いて病棟の窓の外に立てていた。
患者の元気なのがひと足早く小川へ七夕笹を流しに行った。他の患者らより体力があるからと善意の行動だったのが、楽しみを奪われた他の患者らは子供のようにいきり立ち,喧嘩になった。病院という,社会から隔絶された生活は人間の思考も行動も変ってしまうらしい。なかでも、身寄りのないよし子ちゃんを弱いものいじめする女性もいた。
六病棟、七病棟は結核患者の病棟だったが、ここに終戦まで満州で最後の引上げ事務処理をすまして結核重症の身で入院した校長≠ニいう仇名の女性がいた。いつも男装でシャツにステテコ、安静時間にはベットの上であぐらをかいて本を読む。彼女の博学は医師も婦長らも一目おいていた。
安静時間が済むとまっ先に病棟の風呂に入り、次は私の個室で夕食前まで遊びお八ツを食べる。生活を保護された患者の立場は自立心はなく、時の流れに添う生き方になっていた。
そして二年近くたって彼女は私宅へ転がり込んだ。事業に明け暮れている忙しさの中で彼女の勤め口を探したが受け入れるところはなかなかなかった。先祖の法要に親戚一族があつまるのを機に養母(レバノンホーム園長)のもとに移って貰いたいと伝えた。
二年ばかり過ぎた或る日、一葉の葉書が届いた。「この葉書が着いた頃私はこの世にいないでしょう」と覚悟の自殺だった。
そして半年くらいがすぎた或る日、S女子大教授から「校長さんに無理矢理遺言執行人にさせられ、その中にカバさんの名もあるので遺言書の開封に立ち会って貰いたい」と。
私は不気味になって寮友六人と渋谷駅前の喫茶店へ行った。
校長から私達の主治医だった「Y先生を囲む会」のメンバーに五十万円,記念の品物を送ってほしいと。
生前充分面倒をみたのに何故あの世からまで迷惑をかけるのか…。気の重い仕事の贈り物は雨傘にしてメンバーの百人余へ発送したが、梅雨どきになるとやりきれぬ不愉快な思いがよみがえるのである。
(川崎市 郷土史研究家)
|