心にのこる人々 B義弟・カバン先生
蒲 幾美
航空隊付軍医あがりの義弟吉次博士は、歯にきぬをきせぬ大きな地声で、先ず患者はおどろく。
“風邪をひきまして…”と言う患者には即座に「風邪かどうかはわしが決める」と。おもむろに触診、「わかった…」と、どんと膝をたたく。悶々としていた患者は“ああ先生は病名を見つけて下さった”と安堵する。窓口だけで薬をもらいに来る患者には「わしは薬剤師ではない」と言う。急患には食事中でもすぐ患者宅へ往診にでかける。
患者たちから“カバン先生を囲むどんなふう会”という会が誕生した。センセイとして尊敬され、青年期には下士官として乗馬で送り迎えを受け、世の中のことや周囲のことはとんと意にかけていない。
私たち夫婦は先祖代々米屋を営み、まじめに働いて来た兄夫婦なのだが、戦後のインフレと、米国管理下に入って不在地主は小作に返すという法律で、先祖からの山林や田地田畑を取り上げられ、地主と小作は逆転してしまった。
太平洋戦争は終って、九死に一生を得て帰国した夫は、戦時中の南方の島で、椰子の実や草木・蛇・とかげなど、あらゆるものを探し食べ尽くして餓死した戦友の悲惨な状景が胸から去らず、二度と戦争はしてはならぬと、社会運動に血が沸いた。
毎年元旦には一族郎党年賀に義弟宅に集まることになっていた。息子の妻や孫たちは台所で料理づくりを手伝っていた。他家に嫁いでいる義妹夫婦や他のしんせきが客間で盃を交していた。
義弟が突然「こんな集まりは長男の吉右ェ門がせんならんのやが、吉右ェ門はしんしょつぶしてしまったので、わしが代りにやっとる…」と。
私はその時、自分がしゃべらなければ誰が私ら夫婦の心境を伝えるか、と決意した。
「蒲家のしんしょうをつぶしたのは夫の吉右ェ門ではありません。戦後の不在地主の法律とインフレで、すべてがなくなったのです。ただ、私がはっきり自信をもって言えることは、お母さん(姑)に孝養を尽くせたことです。最後まで、六人のねえさま(義姉)たちより私が一番よくしてくれるからと、喜んでおられました」と、畳に頭をすりつけながら「私に免じて許して下さい…」とわびた。
吉次博士は「いやあ…きみさんが悪いのではない」と、あとはおろおろ、言葉がひっかかって出ませんでした。
私は吉右ェ門に、せっかくのおめでたいお正月なので、私らがいては皆さんに迷惑だからすぐ失礼しましょうと、はっきり言って座を立たせ、台所の孫たちに、用事ができたからすぐ帰るよと外へ連れ出した。
息子の車の中で、流れる涙をとめようもなかった。
それから三十数年、私は義弟の邸と縁を切っている。
(川崎市 郷土史研究家)
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