心にのこる人々 I「野麦峠」にまつわる人々  蒲 幾美  (随筆通信 月86より)
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心にのこる人々 I「野麦峠」にまつわる人々   

昔、私は飛騨の町や村から信州岡谷へ集団就職した嫁入り前の娘たちのノンフィクションの『野麦峠』を地元の日刊紙に掲載した。すると、続いて『飛騨春秋』という郷土誌が『野麦峠』を特別号として出版した。

その頃「文芸春秋社」で、有名な作家や著名人を講師に、希望した市町村へ講演に出かける事業があった。当時私は日刊紙の通信員をしていたので、その講演を主催する側の一員として手伝っていた。

そんなわけで、私の知らぬ間に一葉のスナップ写真をとり仕事仲間が私に渡した。

今年は松本清張生誕百年という。このときの松本清張の講演内容は全然記憶にない。私と松本清張の視線は別々のところを眺めている。この写真を見ながら何故か、遠い日飛騨の嫁入り前の娘たちが都会にあこがれて集団就職した信州岡谷の町を想像していた。

当時、小学校や高等科を卒業して、岡谷の製糸工場へ行けば、お茶やお花、行儀作法まで花嫁修業ができるのだと、親も娘たちも期待していた。そして学校を卒業すると、まだ雪の残る幾山河を越えて岡谷へ旅発った。

奥飛騨(河合村・宮川村)の親たちは、古川村の町はずれ、貴船の杜の前の宿で一泊して別れを惜しみ、一年働いて帰る日を待った。

娘たちの出稼ぎは小作にとって大切な現金収入の道だったのである。

工場では嫁入り道具も揃えて貰えるなどという話もあった。

当時、飛騨の各家庭では、家々で女たちはざんぐり(繭を煮て糸にする)で生糸や反物を織る。親たちの仕事ぶりを見て育った子供らには、音や匂いが身に染みていた。

歳月が流れ、平成の時代になって、昔野麦峠を越えて岡谷へ糸引に行った過去をしのんで、平湯峠から信州への峠の上に「あゝ野麦峠」の碑が立てられた。その碑文を書いたのは、朝日新聞のコラム記者・荒垣秀夫氏だった。

私の知り合いで古い友人が「こりゃ違うよ!信州岡谷へ糸ひきに行った娘たちのことを書いたのはカバさんじゃ」と言い、「荒垣氏とは同じ神岡町うまれの古い友達じゃで、一席設けて話さにゃならん…」と。私の知らない間に話が進んだ。

話は昔に遡るが、野麦峠を越えて信州へ糸ひきに行ったことの取材をするのに、行く先々で逃げられ、ことわられた。家の暮らしは貧乏で、予想に反して工場の仕事は辛く、汗と涙で一年働き、涙でるい腺がつまっても、休めば罰として賃金が差しひかれる。

ただお盆だけは一張羅の長着を着て新しい黄色い前掛けをかけて,岡谷の町へ遊びに行った。町は娘たちの黄色の前掛けで美しかったという。(次号へつづく)

 (川崎市 郷土史研究家)

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随筆通信 月 2010年 2月号/通巻86号

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