うしろ姿
池部淳子
いわきはまさに万緑の時であるが、六月を過ぎれば今年も半年が経つことになる。時に対する感覚は年齢によって違う。いまは「時を惜しむ」を実感する。
時を思うと、孔子の言葉「吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従って矩をこえず」を思い出す。
この言葉は理想なのだろうと思っていた。努力目標なのだろうと思っていた。しかし、この内容は理想でも目標でもなく、現実そのものなのだと思うようになった。孔子の言葉の節目節目は実際にこのように自己実現して、人生を何とか越して行くのだよ、ということなのだと思うようになった。
「七十にして心の欲する所に従って矩をこえず」とは、そうなっていて、何とかこの世を生きてゆけるということなのだ。
私には十代の終り頃、強烈に印象に残った出来事があった。それは大学時代のある日、校舎の二階だったか、三階だったか、教室の大きなガラス窓の窓際に立って、建物の前の校庭を見下ろしている時だった。建物の左右に出口があって、そこから生徒たちが校門へ向かって出て行く。校門の方からは生徒が校舎をめざしてやって来るという人の流れがあった。
そのうち一人の初老の男性が左下の出口から出てきた。校門へ向かって帰っていく様子だった。
その男性は中背で、中肉より少し細め、姿勢がすっきりと正しかった。濃い茶色の背広なのだろう、ロングのコートも焦げ茶色で、ベレー風の帽子も焦げ茶色、杖も同色、つまり服装の色は焦げ茶一色で統一されていた。
杖に頼るというのではなく、リズムよく杖を運んで、ゆっくりと歩いて行く。何とも自然な歩き姿に、彼の後姿から目が離せなかった。
そのうち私は気がついた。彼は校門へ向かって真っ直ぐ歩いている。真っ直ぐなのだ。一直線なのだ。私など向い側から歩いて来る人がいれば,すれちがう時には何となく横に寄ったり、無意識に身を引いたりしてしまう。目的物に向かって直線的に歩くなどできはしない。
ところがその男性は建物から出て校庭を突っ切り校門まで50メートル位を真っ直ぐ歩いて行く。上から見ているからはっきりとわかる。姿勢を正し、ゆっくりと杖を運びながら、真っ直ぐに歩いて行く姿に感動しながら、私は彼が門を出て行くまで、見つめていた。校門を出ると下り坂である。姿は見えなくなったが、私は窓辺に立ったまま、ゆっくりと坂を下って行くであろう彼を想像した。
人波の中を、焦げ茶色一色の洋装で、姿勢美しく、何とも自然に、真っ直ぐに歩いて行く人がいる。なぜ、彼はそれができるのかと、私は今でもはっきりとその時を思い出す。
三年生になって専門課程に入った時、このA教授の授業を受けることになった。A教授は私の生涯の師である。
「七十にして心の欲する所に従って矩をこえず」の言葉にA教授を思い出す。あの、歩く姿を思い出す。
ああ、何と、A教授はその時60 歳だったのだ。
(『月』発行人)
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