心にのこる人々 L小学校長T氏  蒲 幾美  (随筆通信 月90より)
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心にのこる人々 L小学校長T氏   

玄関の下駄箱の上の篭で孵化した鈴虫が鳴いている。「今年はじめて鳴きだしたけど去年より五日早い」と家人が言う。私の若い頃は、男たちは田畑で鍬や鋤で働き、漁業では、海漁師・川漁師ら家族全員で働いた。女たちは、一年分の家族の衣類の洗い張りから仕立てと、女の仕事として当り前として、大変な事とも思わず,昼夜働きづめだったのである。虫の音を聞き分けることを考えもしなかったが、楽しみの一つを知らず,損をしていることに気がついた。

祖母が秋になると、樹々の中からチンチロリンと虫の音がすると「青松虫が鳴いているよー。早よう冬物の仕度をせよーとナ」。毎年夏の終りに同じ事を祖母が言っていた。

鈴虫の声を聞くと、遠い日のことが甦る。

飛騨の山村に元小学校長のT氏が居られた。当時庄川ダムの建設中で季節の渡り労務者が全国から集まって働いていた。

お盆にも彼岸にも帰れず、家族の生活資金を溜め、年越しに、土産を子に孫に買って帰るのを夢に見ながら働いていた。

そうした労務者の日々を何とか楽しませよう、その方法はないかと、小川のせせらぎに実物の十分の一の水車を造り、全国から取り寄せた一番涼しい音色の鈴を取り付け、鈴虫水車と名づけた。

水車の傍らに投句箱を置き「文章は上手、下手ではありません」と、筆太で、どんなことでも思いのままを投句して下さいと書き添えた。鈴虫水車の噂はまたたく間に労務者たちに伝わり「小学校以来作文を書くのは初めてだ」と、鉛筆を握りしめた。

労務者たちの飾らぬ素直な文章はT氏の心を打った。T氏はその作文をまとめて一冊の文集にして、欲しい人は申し出るように…と。

労務者たちは心が和み、次々と申し出があった。

数年経ち、ダムも完成した文化の日、T氏と全国放送で対談することになった。

T氏は対談の記念にと、全国からとりよせた鈴の中で、一番鈴虫の鳴き声に似た涼しい音色だからと、一センチほどの鈴をいただいた。この鈴は蝦蟇口にもう何十年、季節が来ると鳴き競っている。

小指一節一センチにも満たない、その細い体のどこから、このきれいな音が響くのだろう。鈴虫は大地の温度が十五度になると鳴き出すという。T氏とは音信がない。ご健在なら百歳を越えておられるだろう。いつまでも忘れ得ぬT氏である。

 (川崎市 郷土史研究家)

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随筆通信 月 2010年 6月号/通巻90号

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