追 憶
池部淳子
用事にかまけて読めなかった新聞が、ごそっと溜ってしまう時がある。この溜った新聞を読むのは意外と時間がかかる。
八月三日の新聞も溜った新聞の中に入っていた。めくっていくうちに、ある見出しに目をみはった。
見出しは「能楽師・関根祥人氏を悼む」というもの。観世流の能楽師・関根祥人(せきねよしと)師が六月二十二日に急死した(急性大動脈解離)。五十歳だったという。
これには驚いた。ああ、何ということだと、思うと同時に、私の記憶の中から、ある姿が鮮明に浮かび上がってきた。
祥人師が五十歳で亡くなったのなら、あの時彼は二十歳前後の若さであったから、三十年位前のことだ。
その頃私は、喜多流の能楽師内田安信氏を師として謡曲を習っていた。その関係から各流派の能を見る機会があった。あれは、珍しく演能の合間だったのか、各流派の若手の能役者数人による仕舞の披露があった。
四、五人目かに一人の青年が舞った。滑るように軽やかに、飛ぶように優雅に、まるで天から役者が舞い降りたかと思うような、並みはずれて美しい舞だった。私も一緒に見ていた妹もすっかり魅せられて「いつか彼の能を見てみたい」と言い合った。その舞姿は今もはっきりと記憶している。プログラムを見て「せきねしょうじん」と読むのだろうか、確かめたいと思いつつ時が過ぎた。だが、なぜか彼の能を見る機会がなかった。
能に関して、もう一つ忘れることのない出来事がある。それは喜多流の名人と言われた友枝喜久夫師の能『鉢木(はちのき)』を見た時のことであった。
『鉢木』という能は、佐野源左衛門が所領を一族のものに横領されて、上野国佐野に零落の暮らしをしているのだが、雪の降るある夜、僧形に身をやつした鎌倉幕府の執権北条時頼に宿を貸す出来事を演じるものである。
零落の源左衛門は秘蔵の鉢の木を伐って暖をふるまい、時頼とは知らず、鎌倉に大事があれば、「千切れたりとも此の具足取って投げ懸け、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりとも、あの馬に乗り、一番に馳せ参じ」ると忠誠を語る。
やがて、時頼が諸軍勢に集合の号令一下、源左衛門が言葉通りに馳せ参じるという筋のものである。
佐野源左衛門を友枝喜久夫師が演じた。初老の武士に似合う年齢だった。能楽堂は静まり返り、客は舞台に引き込まれた。
目から涙が出てきた。その頃すこぶる多忙な時期だったので、私は「目も疲れているんだわ」と何気なく涙を拭いていた。だが、はっと気がついた。疲れのせいではない。何と能に感動したのだ。夢中だったので気がつかなかったのだ。というより、無心のうちに泣いていたのだ。
私は今は亡き二人の能楽師に「本物」というものを見せてもらった。
(『月』発行人)
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