「梅雨のころ」  蒲 幾美  (随筆通信 月42より)
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梅雨のころ
蒲 幾美

 町内の芥収拾場には一寸直せば使えそうな新旧の洋傘が捨てられている。

 二、三十年前までは洋傘は必需品だった。戦後の世田谷の国立病院は古い陸軍病院で、病棟の渡り廊下は吹き降りには傘が必要だった。この病院に終戦で外地から身一つで引上げた患者の中に「校長」という渾名の六十歳代の女性が居た。小肥りで髪は男刈り、夏はシャツにステテコの男装で安静時間にはベッドで胡坐をかき読書をはじめる。医師や看護婦の忠告も無視。安静時間が終るといつも私と療友の二人部屋に来てお八つを食べ、お茶を飲み、病棟の風呂には真っ先に入る。京の老舗の娘でおんば日傘で育ったというが真偽の程は誰も知らない。

 戦時色が濃くなると外地へ出国、そして戦争に巻き込まれたが、引上げ者の事務処理を終えて最後の帰国で重症の結核での入院だったとか。

 私とは二年近い交遊で「校長」が渾名の博学の読書家には皆一目おいていた。私が退院して数年後「病気治癒」で退院を宣告されたと、突然私宅を訪れた。その頃私は事業で忙しい中を彼女の就職などあれこれ当たったが長年の病院での生活保護の暮らしは心身共に働く意欲がなかった。先祖の法要で親戚が集まるのを機に逗留を断ると、大阪の養母のもとに行くと出かけた。孤児のホームの園長が養母だという。その後私は離郷、関東に住むようになると行く先々へ泊まりに来た。そんな歳月がすぎたある日一通の葉書が届いた。

 「この葉書が着く頃、私はこの世にいない」といった意味の葉書に驚いたが八十歳以上は生きたくないという覚悟の自殺だった。

 ホームで長年働き金を溜め、滋賀の草津の姪の家に部屋を増築して住んだが、本屋のない町はいやだと京都のアパートに越す。沢山の蔵書を収納する一室も確保した。友人や知人宅を泊り歩き、旅を楽しむ優雅な暮らしと思っていたが。

 死去から十ヶ月すぎた梅雨の頃、東京の福祉大の教授という女性から電話があった。「校長さんに無理矢理に遺言執行人にさせられたが、遺言状に蒲さんの名があるので」と立会を依頼された。

 私は怖くなって療友を誘い三人で渋谷の近くへ出かけた。本人自筆の遺言書のコピーには遺言執行人から高女クラス会、同窓会、療養時代の「Y先生の患者会」等々、遺産分配の明細の中に「Y先生の患者会」には「患者会の会員に五十万円、校長からのお別れのしるしとして品物を差し上げて下さい」と私宛になっていた。

 生前充分面倒を見たのだから幽界からまで世話をかけなくても、全く迷惑な気の重い仕事に落ち込んだが、世話係の療友を六人に殖やして協議。患者会発足から七年、会員は百人余。校長からの贈り物は梅雨時の洋傘にして郵送を終えたが、大役を果したのに気分は晴れなかった。

 戦前戦後を生きてきた「校長」という女の一生は幸か不幸か、ケチなのか賢いのか、或いは立派なのか私にはわからない。

(川崎市 郷土史研究家)

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随筆通信 月 2006年6月号/通巻42号

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