「白真弓」雑感 @誕生  蒲 幾美  (随筆通信 月54より)
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「白真弓」雑感 @誕生
蒲 幾美

 今から約百八十年前の文政(一四六六)年間、飛騨白川郷木谷村の東屋に男の子が生まれた。勇吉と名づけられた。  この男子こそ、後に、黒船来航の安政元年(一八五五)米国の軍艦へ米俵を一度に八俵運び、ペリーを驚かせたという白真弓肥太右衛門である。

     二月十六日。白真弓肥太右衛門、相州浦賀にて米艦に米を運ぶに当りて怪力を顕はし、
     聲名大いに掲り其似顔は一枚絵に刷出され、また番付面は西方幕尻へ付出さる
     (「飛騨編年史要」)

 私は文久三年(一八六六)生まれの祖父の初孫として可愛がられ、いつも昔の話を聞いて育った。そこには度々怪力白真弓のことがでてきて、どうして力持ちなったのか、何を食べて大きくなったのかなどと私が聞いて祖父を困らせた。

 歳月が経ち祖母や義母の明治生まれも世を去り民間伝承の語り部は消えてゆく。平成のこの頃「自然と共存」の暮らしが見直されてきた。白真弓、稗、葛の根、野麦など、老人から聞いた言葉が甦り、大家族で育った白真弓を調べようと思い立った。

          ◇

 勇吉の生年月日は不明だが、普通の倍余の大きなぼうの子だった。木谷には「熊の手を惜りる」という俗信がある。熊の手で妊婦のお腹をさすると難産でも生まれるという。月の輪熊の手をまじない用に保管している家があり、この熊の手のお蔭で生まれたそうな。

 父親は勇作、母親は村内から嫁いだよねで、東屋の戸主ごてい(家長)は与兵衛。木谷村は七戸の合掌造りで人口は一四七人。束屋には四十人が住んでいたと当時を伝える文書がある。

 白川郷は集落を四つに分けて、中切、大郷、五力村、山家と呼んでいた。

 山国白川郷は山峡に点在する二十余の村落で、巾切より下白川は険しい崖路のため馬は使えず隣村は遠く家屋も少ない。十一月から半年合掌屋根は雪に埋もれ陸の孤島になる。したがって他村からの移入も離村も禁じられていた。

 一戸の家長を中心に次の家長となる長男あに夫婦以外の男女らと子供たち三世代の男女おじおば数十人が家族として平等に暮らしていたのである。そこには明治末期まで続いた万葉の古い妻問つまどい婚の風習があった。大家族に生まれた者は生涯その家で働き長男おじ以外は婿養子に行くこともなく、またおば(未婚)たちも長男に嫁ぐ以外は生家で扶養し、別居結婚(家族、村民公認)であっても生家で老いていった。子供が生まれるのは労働力が殖えることで家族の繁栄につながる。その時代は中絶まびきなどなく新しい生命の誕生は歓迎されていた。

 大世帯の中で助けられながら若い母親はわが子を守り、自分の子育てに悩み、二人三人と授かる子供に身命を注いでたくましく生きていった。

(川崎市 郷土史研究家)

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随筆通信 月 2007年 6月号/通巻54号

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