「白真弓」雑感 C少年期
蒲 幾美
勇吉の性格はどの年寄りに聞いても、優しいおとなしい、内気だが村人にもきちんと挨拶する礼儀を持っていたという。
一家の亭主が一番の権限を持ち、次はおば(未婚)の年かさの増したのが鍋頭として采配をふるう。あとはみな同じ家族で順位が守られていた。
そうした中で育った勇吉の子供の頃の伝承は少ない。氏神白山神社の祭りに榧の木のもとでバンバン持ち(力試し)があり、俵を差し上げた者には褒美にどぶろくと麦煎餅が出た。この時勇吉が自分の意志で俵に寄り両足をふん張ってゆっくり差し上げたそうな。その場で見ていたように明治三十年(一八九〇)生まれの田中作助さんは語る。集っていた村人は九歳という勇吉の怪力を初めて知ったという。この木谷の祭りはどぶろく祭りの元祖かも知れない。
長い冬が終わり田植の季節になると白川郷を思い出す。植田の緑に写る合掌屋根と、あちこちの田水の取入れ口にショウブの紫の花が風にゆれていた。
合掌造りの民宿では一人客のために五右衛門風呂をたいてくれた。村の老人会に招かれて初めて老人たちとの顔合わせだったが「遠いところ、ようおいでんさりました」と親しく受け入れられて村人の心に和んだ。民宿の夕食は大きな囲炉裏の炉縁を膳代りにして民宿のおやじさんは大きな徳利と三味線を持って来てどかりと胡坐をかいた。「ひとりでは寂しかろうで、まあ一ぱい呑ままいか」と赤い盃を差し出した。爪弾きの“古大尽”を一緒に唄いどぶろくに酔いタイムスリップしたような一夜だった。
カメラマンで今は亡き友人細江光洋氏は戦前から白川郷の魅力に何十回も通い続けた。
昭和十年(一九三五)ブルノ・タウトが「スイスの幻想」と感激した集落中野、平瀬を通り牧戸で木炭バスに乗りかえて山道を歩き、現在は二時間足らずで直通バスで荻町へ行けるが、当時は荻町村へは六時間かかったという。
それまで秘境白川郷を知る人は少なく、村の赤い屋根や新しい家が建ったので“観光客誘致”のために荻町の八幡神社のどぶろく祭りの撮影に来てほしいという依頼だった。その頃は総て物資の配給時代で、滞在分の重い米を背負いフィルムも入手困難、疲れきってようやく荻町の民家に泊まった。
翌朝村の道で
「お早ようございます」
と挨拶すると
「大儀でござる」
と返ってきた古の武将の一言にシビレタという。
平家の落人の末裔と思われる村人の暮らしの習慣が永い歳月が経っても残っていたのであろうか。
(川崎市 郷土史研究家)
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