「感動」  池部淳子  (随筆通信 月58より)
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感動
池部淳子

 秋彼岸がすぎた。雲が高く、虫が嶋き、月も美しい。

 秋は物思う季節。暑さに張りつめていた気持がほどけて、頭脳も休まるのか、感性が冴えて感じ易いのかもしれない。

 それとも年をとると涙もろくなる言われているから、もしかしたら、そのせいかもしれないが、私は近頃心を動かされて思わず涙を流す経験をした。

 まず、一回目は八月、二十日の朝日新聞38面に載った記事。一九四五年八月九日、戦争の終結について天皇臨席の御前会議が始まる時、当時の束郷茂徳外務大臣が、駐スイスの加瀬俊一公使に当てて、原爆の投下についてスイス政府を通じてアメリカに抗議するよう、公電を打ったという記事だった。加えてポツダム宣言受諾決定の直前、東郷外務大臣は加瀬公使に別電を打って「本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たな罪悪なり」と抗議文を追加している。

 この記事に感動した。ああ、あのときアメリカに抗議しようとした人物がいたのか。日本にもそんな素晴しい人がいたのだ。そう思ったら涙が出てきた。

 東郷外務大臣の見事な見識と行動に感動してしまった。

 二度目の涙は九月十三日の朝日新聞「声・語りつぐ戦争」欄の投書記事だった。一九四五年八月、福島県会津に疎開していた当時五歳だった女性からの投書で、彼女の母上が通った病院に「捕虜」と呼ばれた十数人の中国人らしい人たちがいて、木のベッドに莚を敷いて寝かされ、軍からは「生かさず殺さず」と言い渡されていたという。だが、病院の院長は夜になると、あるだけの食糧を彼らの寝床に突っ込み、患部には薬を塗って歩いた。投稿者の母上も時折、わずかな食物を持ち込んでは口にいれてあげたという。

 まもなく日本は敗戦。捕虜は開放され、投稿者の母上は病院へ呼び出された。母上は投稿者と弟の二人をつれて病院へでかけたという。すると、あの「捕虜」だった中の隊長が、純白で裾長の中国服姿に長剣を提げ、部下はずらりと整列。

 院長と母上はその前に立たされ、顔面蒼白。ところが、隊長は投稿者の弟の手に食パンを握らせ、「日本は負けた。だが、この院長及び関係者に指一本触れてはならぬ。院長たちの慈愛に感謝する」と流暢な日本語で語り、投稿者と弟の頭に軽く手を載せ、母上の手を握った後、両手で院長の両手をしっかりと包んだと書かれてあった。ここで、私は涙をこぼしてしまった。院長と投稿者の母上と、そして中国人の隊長と、何て素晴らしい人たちなんだ。こんなことがあるなんて、なんと素晴らしいんだと感動してしまった。

 三度目はほんの些細な一言。ラジオから流れる歌謡曲が耳に入って、何となく聞いていたら、その中の一節で「泣いた分だけ幸せが必ず来るよと母の声」と歌った。それを聞いたら涙が流れた。亡くなった母を思い出したこともあるが、それより今でもこんな歌詞を書く人がいるんだと心を打たれ、涙が湧いてきた。

 この三度の経験から、私は自分が特に涙を流すのはどんな時なのか解ったような気がした。「すばらしい人がいた」「人間て何てすばらしいんだ」と、人間が信じられるようなとき、私は感動するようである。

(『月』発行人)

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随筆通信 月 2007年10月号/通巻58号

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