「白真弓」雑感J鉄舟との出会い 蒲 幾美  (随筆通信 月64より)
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「白真弓」雑感J鉄舟との出会い
蒲 幾美

 大佐(大坂屋佐兵衛)は町の旦那衆の中でも商売旦那として、オランダや中国などとの貿易で世界の動きや国内事情に詳しい人物で代官の相談相手として陣屋へも出入りしていた。

 嘉永5年(1852)飛騨陣屋へ江戸浅草奉行だった小野浅右衛門高福、陣立(軍事訓練)を三福寺村上野で行ひ、白川木谷村奥右衛門の怪力が著はる

 (飛騨編年史要)

 黒船来航の余波は飛騨郡代にも及び、外敵への心構えとしての上野平での軍事練習だった。

 この陣立で怪力を認められたのが奥右衛門で、四、五人で持つ旗を一人で支え持ったり、四人がかりで運ぶ水桶を荒縄で背負い難なく運ぶさまが怪力となってひろがった。

 大坂屋佐兵衛は旦那衆の中でも素封家であり、白川郷の掟を破って逃亡した若者を留めておくこともできないと、古くからの親友の、地役人でもある指田高勝に身の振り方を相談した。「実直そうな若者と聞いておる。わしが引き受けよう」と・・・。指田高勝は細身で気さくに誰にでも話しかける庶民的な旦那衆として町民からも親しまれていた。

 奥右衛門に「これからの若者は、読み書き算数は身につけておかねばならぬ」と、学ぶ大切さを教え、四股名の白真弓肥太右衛門は出身地を世に広めるための高勝の命名と思われる。

 或る時指田の下僕として陣屋に向った。陣屋の門の前で奥右衛門は恐れをなして立ちすくんだ。幼き日、陣屋の役人が木谷村の地検(山林、田、畑の調査)に来て「幾重もの山林にはまだ開拓の余地がある」という。村長宅に寄り合った者達は「そんな無茶な、木谷は山峡の村じゃで」と言うや「なにっ!」と脇差に手をかけた。勇吉は思わず危ない!と両手を差し出したはずみに役人は一間も向こうへ飛ばされた。

 村人は「申し訳ござんせん。ず体はでっかいがまだ九つの子供でして」と平伏して謝ったが「あんなに胸のすく思いをしたことがない」と語り草になっている。

 陣屋の用の済む間、勇吉が道場をのぞくと、勇吉と同じ位の少年の強さが目立った。熱心に見ている大男の若者が関取白真弓と知った相撲好きの鉄舟は喜び、郡代の若殿と醸造元の下僕が取り組むこととなった。

 上野平の活躍のあとの足どりは、市内の料亭「州岬」で働いていたとか、美濃方面の米屋にいたとか。また、大佐と指田家に何年いたのかも不明である。

 鉄舟の伝記や鉄舟を著した本は多いが、鉄舟の生前から禅の師弟の間柄であった四谷全生庵主席南院老師の"鉄舟居士の真面目"という著書が大正七年六月(1918)発刊されている。

 (川崎市 郷土史研究家)

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随筆通信 月 2008年 4月号/通巻64号

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