「白真弓」雑感O飛騨古川町出身「緋縅(ひおどし)」 蒲 幾美  (随筆通信 月69より)
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「白真弓」雑感O飛騨古川町出身「緋縅(ひおどし)」
蒲 幾美

白真弓を調べ歩いていて、同じ関取りでも違う生き方の者もいたことを知る。明治時代までは東京、京都、大阪の各相撲は独立して勧進相撲を行なっていたようで、京都相撲の最盛期にこれを支えていた人気力士が大関緋縅だったという。緋縅の本名は東原弥兵衛(安政二年(1873)十一月十三日、古川村向町東原清兵衛の長男)。

緋縅はほれぼれするほどの男前で京都の町を常時駕籠で乗り廻すほどの羽振りで、花柳界でも大変もてたという。京都相撲は明治四十三年にロンドンで日英博覧会が開催されたとき、一行三十五名が渡英して余興に相撲を紹介するなどしたが、次第に運営困難となり緋縅はその前に引退した。

引退して古川に帰ったのは「大関緋縅の碑」を建立するのが目的で、自分の名をいしぶみにして生まれた地に遺したかったのだろう。

緋縅は確かに力持ちで、いくつもの逸話があり、秋の収穫どきが過ぎて年貢米が地主旦那の蔵へ運び込まれている時、緋縅が入って来た。本田六三郎旦那が「その米俵を口でくわえたらお前にやる」と冗談に言うと、緋縅は上り框に米俵をのせ、両足を踏ん張って両手で框を押さえ、俵の縄目を歯でくわえるとじりじりと米俵は五、六寸持ち上がった。「旦那さまいただいて参ります」と帰っていったという。

また渡辺一郎氏宅へ当時の西園寺公(華族の筆頭で、明治憲法下の諮詢機関枢密院議長)から頂いた「至誠感神」の書を持参した。渡辺氏はこれを欅に刻んで額にし、緋縅と二人の名前で杉本様(氏神)に奉納した。

碑を建てるために飛騨の旦那衆の家々を廻り、建立資金の喜捨を募って暮らしていたが酒好のため酒代に消えていったらしい。

古老の語り草に"ふぐり酒"というのがある。喜捨を受けるためか、或は酒好きの由縁か知らないが、求められれば、相手のふぐりを広げ酒を注ぎそれを呑んだというが、まさかと思われる伝承である。

或る時、町の古老から和服に相撲髯のセピア色の写真を貰った。古川出身の豊岡。明治末期の東京相撲で活躍した力士で前頭になるとき、怪我のため廃業している。

豊岡は緋縅より二十年送れた明治九年古川町三之町下の角川屋利助の長男。十四歳のとき一円四十銭の飲み屋の借金を負い、働いてひと旗あげようと遠江の豊岡町に着き、米問屋で働いていたところへ興行に来た東京相撲の関脇稲川政右衛門に認められ出羽の海部屋入り、数年後足の骨を折り引退。豊岡は廃業のあと、発心して身延山に入山。闘争の世界から求道の世界へ変って、遂に身延山日蓮宗大雄寺の住職となり、昭和四年、大勢の信徒に取り巻かれながら大往生を遂げた。五十三歳で還御。

(「白真弓」雑感 完)

 (川崎市 郷土史研究家)

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随筆通信 月 2008年 9月号/通巻69号

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