心にのこる人々 I「野麦峠」にまつわる人々(続き)
私が野麦峠の取材に奔走していたころ、峠越えをした古老を尋ね、野麦峠の話を聞こうとしても、ことわられたり、逃げられたりした。当時新聞記者という職業は山国では人のあら探しで食べている職業位にしか思われていなかった。
私は毎朝官庁を一回りする。警察、町や村の役場などなど。するとカバさんは警察のスパイだと言う。
警察署の桜井次長さんは私とおない年の未年生まれだった。
「貴女は強い!私の生まれた美濃では、未女は門に立たたすなと嫌われた」という。つまり未生まれの女は嫁にしたら家の者を自由に使う気の強い女だと嫌う風習があるのだと。
平野村(現在の岡谷市)で、明治に百八十九釜であった製糸が、ピーク時の大正十一年には一万八千六百四十三釜と約百倍になっている。
どの野麦峠の物語も、あまりにも暗い面が先行して、この峠を越えた女工たちがもたらした経済面や技術面を殺してしまっている。
労働条件の悪さや、賃金の低さを時代的背景抜きで強調し、あたかも人身売買のように、鬼のように表現する人もあるが、もしそんな事ばかりだったら、いくら人の良い飛騨人でも何十年もの間、自分のかわいい娘を送りつづけた事はなかったであろう。
糸ひき歌にこんな文句がある
「糸をひきゃこそ
まんまがくえる。家じゃ稗粉も食べられぬ」
それが日本中の、ごくあたり前の世相であった。
私の母ちかもまた糸ひきに信州へ出て、病気になって逃げ帰った一人だった。開通したばかりの中央西線で逃げたあとは歩いた。「駅の改札でおどおどしているのを見とがめられたが、何とか汽車にのれた」と生前話したが、自慢話が多く、健康でさえあれば、当時としてはあたり前の職場であったようである。
大笹原が逆光にさらされて、銀色に輝く中で「あゝ野麦峠」や「政井みね」の碑になぜか冷やかな心でいられるのが不思議でならない。
(川崎市 郷土史研究家)
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