「教わるということ」  杉山康成  (随筆通信 月22より)
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教わるということ
杉山康成

 何でも白分でやらないと気がすまない性格のせいか、この歳になるまであまり人に何かを教わったという覚えがない。習い始めて7年ほどになるピアノも、教わると言うよりアドバイスを受ける程度の感じだ。先生方(僕よりずっと若い)も、僕のような大人の生徒に対しては、あまり細かいことは言わない。音大を受けるわけでもなし、あくまでもピアノを楽しむことが前提だからだ。そんな僕に、最近、思わぬ転機が訪れた。先生が交代したのである。

 S先生に代わった当初、僕の演奏は「機械的で全く表情がない」と評された。一方で、僕が曲の解釈について一通りの能書を並べるので、「言いたいことはあるようだが、全く演奏に現れていない」と思ったようだ。そこで表情に関していろいろ指示が出された。どう歌うかよく頭に描いて!もっと大きく表情をつけて!気持ちはクレシェンドで、でも音は大きくしないで!……などなど。しかし、こんなことを立て続けに言われても技術が追いつかない。そもそもどういうふうに弾けばよいのかすらピンと来ない、そんなレベルである。イメージのないままもがいても、ますます肩に力が入るだけだ。いっこうに音楽的になってこない僕の演奏に先生の苛立ちは募って行ったはずだが、正しい弾き方さえ理解すれば必ず弾けるようになる、という彼女の信念が揺らぐことはなかった。

 僕の練習を横から見つめ、じっとどこが悪いか注意する。表情が付かない原因の一つは、一つ一つの音に十分注意が払われていないためだ。それを僕に自覚させるため、恐ろしくゆっくり弾くように指示される。気持ちが指先から鍵盤に完壁に伝わるように意識を研ぎ澄まさなければならない。

 なるほど、と思った次の瞬間、彼女は「この弾き方では絶対に弾けない!」と叫んでいた。「手首に力が入っていて全く使われていない!」確かにそのせいで僕の演奏は固いのだ。ただ、力を抜くのは楽ではない。手首にばかり注意が行くと、すかさず、「全然、音楽に集中していない!」と叱咤が飛んだ。「心で歌わなければ、指が動くはずがない!」それはそうなのだ。

 そんなS先生に、先日、突然「驚くほど上手くなった」と言われた。指導の効果が徐々に出はじめたのだ。先生に恵まれれば、上達するのである。面白いのは、それがピアノに限らず僕の生きかた全体に及びそうなことである。ピアノを通して教わったことが、自分の中に眠っていたものを引き出したからである。

(東京都 会社社長・理学博士)

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随筆通信 月 2004年10月号/通巻22号


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