「白真弓」雑感 D二足の下駄  蒲 幾美  (随筆通信 月58より)
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「白真弓」雑感 D二足の下駄
蒲 幾美

 木谷村では十二、三歳になると成人として認められ、村の若社(青年団)に入る。大人になるというのは家のために労働する事であり、盆になると家長から新しいナツギが支給された。男にはジンダイジ織り(麻と木綿で織った縞)でおくみのない短着たっつけと腰にひだがある馬乗りの深い股引ももひき、女には白い麻の長着カタビラだった。

 種を播きいくつもの過程を経てをうみ、、、(麻糸)として布に織る自給自足の製品である。白生地を染める染代だけは家長持ちとなっていたがあい染めは越中城端じょうはなの商人が扱い、大家族で染代がかさむので古い常着の上に重ね着して新しいのは晴着にしていたという。    ♪盆がはよきた紺屋は焼ける
    盆のかたびら白で着る
   ♪しも下の衆とは聞かでも知れる
    麻のナツギに紋つけて
 江島美枝子(郷土史家)の調査によると、木谷以外の山村では明治中期までナガナツギ(女の着物)のみ紋と裾模様をつけたとある。

 勇占が若社入りをしたあと十七、八歳の時飛騨に勇吉の噂が広がった。木谷の若者が硝煙しょうえん(火薬)を積んだ牛を抱えて崖道を渡ったという怪力の相撲取りの噂である。

 勇吉は相撲取りと言われるのを嫌い、事実と違うのをなげいたが噂は消しようがない。牛の背に十六貫入りの行李こうりを振り分けに積み、途中山崩れで牛を繋ぎ止めて荷縄で行李を背負って狭い崖道を渡った。牛を抱えたかどうかさだかでないが、火薬と牛という危険な組合わせがトップニュースとなったのであろう。

 村史には硝煙について何ヶ所かに記述があるが、行李とあるのや三箱(目方五十四貫)などさまざまで、資料の出どこによって違っている。硝煙製法の概要は「大家族の床下にはどの家でも硝煙がつくられおり大の男が立って歩ける位掘り下げ、夏の間に牛肥と土、稗殻ひえがら蓬草よもぎ煙草たばこ、沼草、下肥しもごえなどを加え時々まぜて三、四年ねかせる。冬になって大きなたれ桶に水と一緒に入れて桶の穴からあくを取り除き、更に煮つけると真白な粉末に変り、はじめて煙硝えんしょうの固体ができる」とある。また“飛州誌”には煙硝は合掌村の家々の特権として天領で認められ株として無利子で中間の業者を通じ米の貸下げがあったという。加賀に納めていたが後には名古屋、大阪城中にも移出されたとある。

 勇占はらい年の高山祭り見物に行く仲間と先輩の治作小屋で朴の木の下駄づくりののみを振っていた。家に帰って二足目を作っている時おばに見つかり

「下駄を二足も作って、東屋を出るつもりでなかろうナ」と不審がられたという。

 自然の山と川をのこして新しい維新の夜明けとなっていく。

(川崎市 郷土史研究家)

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随筆通信 月 2007年10月号/通巻58号

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